エレファントカシマシの本当の凄さを、真正面から書きました(JAPAN誌コラム『激刊!山崎』より)

エレファントカシマシの本当の凄さを、真正面から書きました(JAPAN誌コラム『激刊!山崎』より)

 みなさん、エレファントカシマシの「究極の一曲」と言えば何を思い浮かべますか?
けっこう人によってバラバラなのではないかと思うんです。
 
有名といえば「今宵の月のように」でしょう。
でも初期からの代表曲で今でもライブではお馴染み、といえば「ファイティングマン」かも知れません。
広い世代にわかりやすくメッセージを伝えたという意味では〈さあ頑張ろうぜ!〉の「俺たちの明日」もあると思います。
エレカシ以外誰も歌えない、これぞエレファントカシマシ! という意味では「ガストロンジャー」なのかも知れませんし、
古くからのコアなファンにとっては「珍奇男」も「遁生」も「月の夜」も「奴隷天国」も、
我らがエレファントカシマシを代表して余りある「究極の一曲」です。
 
めっちゃバラバラですよね。
普通だったら同じバンドの曲としてはありえないぐらいバラバラですが、
どれもエレファントカシマシです。
 
でも、ただバラバラなわけではありません。
バラエティーに富んでいるとか、多岐のジャンルにわたっているとか、
そういうんではないんです。
 
つまり、極端なのです。
どの曲もそれぞれにあまりにも極端であるがゆえに、
それぞれが「究極の一曲」になり得る強烈さを放っているわけです。
 

では、なぜエレファントカシマシの曲はそんなにもどれも極端なのでしょうか。
 
それは、才能があるからです。

宮本浩次が途方もない才能の持ち主だからです。
 
何でもかんでも「才能」という言葉で解決しようとは思いませんが、
エレファントカシマシの音楽を語る場合に限っては、もうそれは避けて通れません。
ケタが違うのです。

ドストエフスキーの言葉を歌詞に編み込んだかと思えば、
「どーんといこうぜ!」と漫画のヒーローのように快活に叫び、
かと思えばキリスト教も縄文時代も孔子もひっくるめて人類史を一刀両断し、
ある歌では「机さん 机さん 私は馬鹿でしょうか? 働いてるみなさん 私は馬鹿なのでしょうか?」と開き直ってみせ、
かと思えばある歌では「さあ頑張ろうぜ」と渾身の思いを込めて人生を応援する。

こんな極端なことをマイク1本でやってしまえる能力、それは才能です。
 
ただ、いくら才能があったとしてもそれを極端で生々しい形そのままに表現しようとすると、
普通ならその表現は崩壊してしまいます。
「天才が作ったわけわかんないもの」としてしか伝わらないものになってしまいます。
でも宮本浩次には、そのケタ違いの才能から生まれた極端な世界観をしっかり届けることができる「肉体性」も兼ね備わっている。
そこが凄いところです。
あの声、あの音感、あのギターのタイム感、ステージ上でのあの動き、表情。
全ての極端な歌の数々が、宮本浩次の肉体性を通して何故かすべてのつじつまが合ってしまう。
「わけわからないもの」になりかねないものが圧倒的な「奇跡」になる。
破格の才能と肉体性を兼ね備えているからこそ、
エレファントカシマシはこれほど極端な楽曲群を生み出しながら30年近くも第一線で戦い続けることができたのです。
 

でも、そんなエレファントカシマシでも、これだけには勝てない、というものがあります。
それは、年齢と病気です。
人間だから、それはしかたがないことです。
でも、勝てなくても乗り越えることはできる。
それを証明したのが今回の新作『RAINBOW』です。
勝てないという事実を受け入れて、受け入れることで乗り越えた。
そして乗り越えることで年齢や病気を凌駕する新たな能力と肉体性をエレファントカシマシは獲得した。

一言で言えば、パワーアップしてしまった。
 
凄いことだと思います。

ロッキング・オン・JAPANが彼らをデビュー前から今日まで全面的に応援してきた理由が、わかっていただけたでしょうか。
新作『RAINBOW』を聴けば、さらに深く頷いてもらえるのではないかと思います。

(ロッキング・オンJAPAN連載コラム『激刊!山崎』より転載)
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