JAPAN、売れています。
特にここ数年は、若い創刊雑誌のような勢いで発売日から数日で書店から無くなるという号が増えていたりします。
もう10年以上前から続いている「雑誌不況」「出版不況」ですが、その中でJAPANはかなりの強さで戦っています。
たとえばこの10年間で漫画雑誌の販売部数が約半分、ファッション雑誌が約四分の一になっていて、それに比べると、JAPANの販売部数は10年前からほぼ変わっていません。
おそらく同業他社の方からすれば信じられないようなことだと思いますが、事実です。
もちろん、今の「出版不況」と「音楽不況」のダブルパンチの中で勝ち続けるのは昔よりもはるかに難しくなっています。
でもそんな中でブレない編集方針を持ちながら毎号しっかり売れる雑誌を作り続けることはできるのです。
JAPANが創刊して今年で32年経ちました。
僕は創刊時から関わっていて、ほぼずっと編集長/総編集長という立場ですべてを見てきたのでよくわかるのですが、自分たちがいいと思える雑誌を作って、しかもそれをしっかりと売るには、雑誌というものの本質をつかむ必要があるのです。
今回はそれをお教えしちゃいましょう。
つまりは「なぜJAPANだけが30年以上も日本の音楽雑誌のNo.1であり続けられるのか」という話です。
でもこれは音楽雑誌に限らず、映画雑誌にもスポーツ雑誌にもインテリア雑誌にも、どんな雑誌にも通用する、メディアというものの本質のお話でもあるのです。
不況とともに失速して消えていく雑誌や、創刊して何年経っても伸び悩んでいる雑誌を見るとよくわかるのですが、そういう雑誌は「器」でしかないのです。
そういう雑誌を作っている編集者は、雑誌というものを、読者が望むものを盛る「器」だと思っているのです。
そして編集という仕事を、「器に料理を盛り付ける」ことだと思っているのです。
だから、読者がいま食べたい思う料理が乗っていれば買うけれども、乗ってなければその雑誌にはなんの価値もないし、その料理が別の器に盛られていたら読者はそっちに行っちゃうわけです。
そうやって時代の変化とともに生まれては消えていくわけです。
そういう雑誌の編集者は、雑誌というもの本質、メデイアの本質を理解していない。
では、器ではない雑誌って、いったいどういうものなのでしょうか。
それは、雑誌自体が体温を持ち、感情を持ち、時には間違いを犯したり、好かれたり、嫌われたり、ともに感動を分かち合ったり、信じたり、裏切られたりする、まるで人格を持った一人の人間のような雑誌です。
読者に語りかけ、そこにコミュニケーションが成り立つような雑誌、それが「器」ではない雑誌です。
そのコミュニケーションは「雑誌」と「読者」の間に限りません。
「アーティスト」と「インタビュアー」、「アーティスト」と「フォトグラファー」、「アーティスト」と「読者」、あるいは「フォトグラファー」と「読者」、「インタビュアー」と「読者」、時には「読者」と「読者」──すべての間に成立しています。
そのコミュニケーションがちゃんと成立している限り、その雑誌は人々から求められます。
コミュニケーションの相手として、対話が成り立つ相手として──友達のようなものとして求められるのです。
掲載されているのはアーティストの記事であり写真であり、それはまぎれもなく雑誌という「商品」なのですが、そこに参加している人たち全員(もちろん読者も)のコミュニケーションの総体でもあるのです。
アーティストとインタビュアーの対話、それを読むことで起きる読者とアーティストの対話、アルバムを聴いてそれに対してライターがレビューを書くという対話、それを読んで自分の思いを重ねるという対話、カメラを通したアーティストとカメラマンの対話、その写真をデザイナーが選んでレイアウトするという対話、それを見て何かを感じるという対話。
そういうものの総体が雑誌なのです。
素材が乗ったただの器であってはならないのです。
JAPANはこれからもますます対話の温度とクオリティーを上げてくつもりなので、読者もアーティストもフォトグラファーもライターもデザイナーも、熱く参加してもらえたらと思います。
(山崎洋一郎)
ロッキング・オン・ジャパン6月号・コラム『激刊!山崎』より