ザ・ローリング・ストーンズ、60年代の黄金の10曲!

ザ・ローリング・ストーンズ

ザ・ローリング・ストーンズのデッカ・レコード時代(1964-1969年)のカタログを、新たにリマスタリングしたモノラル音源として収録した『ザ・ローリング・ストーンズ MONO BOX』がリリースされる。「ステレオ」、「モノラル」、「イギリス盤」、「アメリカ盤」とこれまで様々な形で錯綜していたストーンズの60年代の作品が、ようやくすべて整理されるという意味で、ずっと待たれていた企画だといってもいい。なぜストーンズの音源はそのようなややこしいリリース状況になっていたのか? そして、モノ音源で聴く60年代ストーンズの名曲はどう響くのか? この機会に検証したい。

文=高見展

ストーンズの音源が複雑なリリース状況だった理由

ザ・ローリング・ストーンズの音源は、1966年のアルバム『アフターマス』(収録曲全てがバンドのオリジナル曲となった初のアルバム)からステレオでリリースされるようになり、64年のデビューからそれまでの音源はすべてモノラルで制作されていた。しかし、アメリカではステレオが急速に普及していたことや、ザ・ビートルズが63年の1stアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』から早くもモノラル盤と同時にステレオ盤もリリースしていたことから、デッカは、モノラル音源を左右のチャンネルに反響させた「疑似ステレオ盤」を、ストーンズの作品でもリリースした。

また、モノラル時代にも、アメリカで制作したレコーディング音源は実はステレオ用の素材も残してあったため、70年にストーンズが自らのレーベルを設立し、契約が終了すると、デッカはこのステレオ音源をコンピレーションとしてリリースするようになり、そのうえ既発のコンピレーション盤の楽曲まで、ステレオ音源へと差し替えるようになっていった。

さらに、80年代に入ってミキシング・チームのモービル・フィデリティ・サウンド・ラボ社が初期楽曲のステレオ・ミックスを制作し、コンピ盤『ホット・ロックス』収録曲にこの音源を使用すると、デッカもそれを採用することとなり、さらに複雑な事態を生んだ。

その一方で、ストーンズは60年代後半にマネジメント契約したアレン・クラインに、1970年までのマスターテープ所有権を掠め取られ、結果的にデッカ時代の音源については、イギリスではデッカ、それ以外の国ではロンドン・レコードと、マスターテープを所有するクラインのレコード会社アブコ(ABKCO)が入り乱れて権利を保有することになる。後にアブコは、ストーンズのデッカ・カタログのアメリカでの販売権を掌握すると、音源をほぼモノラルで統一、さらに「アメリカ盤」としてリリースされたアルバムのみを残すことになった。アメリカ以外のマーケットでは、その後しばらくはデッカとロンドンの既存のカタログが、疑似ステレオ音源も含めてリリースされ続けたが、やがて世界的にも「アメリカ盤」で統一されるようになる。それに従って、ストーンズのオリジナル作品といってもいい「イギリス盤」が久しく手に入らないという残念な状況にもなっていった。

今回のボックス・セットは、そのような理由でずっと手に入らなかった「イギリス盤」が、「アメリカ盤」とあわせて「モノラル盤」として網羅されている。ストーンズの最もベーシックな音源が、ようやく体系的に聴けるというとてもありがたい企画になっているのだ。

さらに今作は、1967年の『サタニック・マジェスティーズ』、68年の『ベガーズ・バンケット』、69年の『レット・イット・ブリード』も「モノラル盤」として収録されている。ステレオ音源が普及した時代以降の作品を、わざわざモノで聴く必要があるのか?という疑問もあるかもしれない。しかし、イギリスでは70年代を迎えるまではモノが一般的だっただけに、制作現場ではモノ・ミックスには相当力を入れてきた経緯がある。特に、名盤としての名をほしいままにしてきた『ベガーズ・バンケット』と『レット・イット・ブリード』両作品のモノ・ミックスは、その奥行と厚みのド迫力が伝説ともなっているぶっとび音源なので、ファンなら一度は耳にしてみたい音なのだ。

“Come On”(1963)

ザ・ローリング・ストーンズにとって記念すべきデビュー・シングルで、定石通りのチャック・ベリーのカバー曲。ただ、チャックのオリジナル・ヴァージョンはニューオリンズ風のリズムも入ったかなり趣向の凝った曲だが、このストーンズ・ヴァージョンは鋭いギターのリズム・カッティングで一気に駆け抜けるアレンジになっていて、その性急なパフォーマンスはある意味でパンク的でさえある。チャック・ヴァージョンの洗練されたアレンジに対応する要素となるのがブライアン・ジョーンズのハーモニカで、ブルースやR&Bを目指すバンドとしての音の好みをよく前面に打ち出している。ミック・ジャガーの節回しもスタイルとして出来上がっていて、まさにストーンズの原点そのもの。

“Tell Me (You’re Coming Back)”(1964)

ファースト・アルバム収録曲で、ミックとキース・リチャーズが書いたオリジナル楽曲として、初めてレコーディングされたトラック。後にミック自身も語っていることだが、当時のストーンズがレパートリーとしていたブルース曲やR&B曲のカバーとは違って、際立ってポップな節回しを誇っていて、それがエッジーなストーンズのバンド・サウンドと合わさった名曲に仕上がっている。そのポップさが当時のバンドの身上にそぐわなかったためイギリスではシングル・リリースされることはなかったが、アメリカではシングルとしてリリースされ、チャート24位と健闘、US1枚目のシングル"Not Fade Away"を凌ぐことになった。日本でもヒットし、初期ストーンズといえばこの曲という、代表曲のひとつとなった。

“Time Is On My Side”(1964)


アーマ・トーマスのカバーで、特にラップのようなミックの説教節がソウルフルなナンバー。R&Bカバー・バンドとしてのストーンズの実力と人気を不動のものにした名トラック。2ヴァージョンあって、ひとつはアメリカでのセカンド・アルバム『12x5』に収録されたオルガン演奏がイントロとなったゴスペル風のヴァージョンで、こちらがアメリカではシングル・カットされ、チャート6位にまでつけることになり、ストーンズにとって初のトップ10シングルとなった。もうひとつのヴァージョンはイギリスでのセカンド・アルバム『ザ・ローリング・ストーンズ No.2』に収録され、イントロがギター・ソロで始まる。こちらはブルースの殿堂ともいえるシカゴのチェス・レコードでレコーディングされたせいか、全体的によりテンションが高く、バンドはコンピレーションにはこちらを選ぶことが多い。

“(I Can’t Get No)Satisfaction”(1965)


文句なしにストーンズの最も重要な代表曲のひとつで、この曲をものにしたことで名実ともにビートルズと双璧をなすバンドになったといってもいい。この歴史的なリフをキースはアメリカ・ツアー中に閃き、早速レコーディングがシカゴやロサンゼルスで行われたが、もともとキースとしてはホーン・セクションのリフとしてイメージしていたものだったという。確かにそうしていたらどこまでもサザン・ソウル風な曲になっていただろうが(事実、すぐにオーティス・レディングがカバーした)、ギター・ロックとして貫徹したところがこの曲の真の破壊力を生み出すことになった。消費社会に生きる憂鬱をひとつの激情として吐き出してみせるミックの歌詞とヴォーカルも見事で、そのラップ風のヴォーカルは"Time Is on My Side"のソウル・パフォーマンスから一転して、どこまでもモダンでささくれだった表現となり、バンドの驚異的な飛躍をみせつける名曲となった。

“As Tears Go By”(1965)

初期のミックとキースの共作曲には極端にポップな名曲がいくつも生まれているが、そのなかでも最も早い1964年に書かれた楽曲のひとつ。しかし、ストーンズは本格的なR&Bやブルース系バンドとして売出し中だったため、楽曲はマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムが発掘した女性歌手マリアンヌ・フェイスフルに託され、マリアンヌを一躍人気歌手へと押し上げるヒット曲となった。65年の『ディセンバーズ・チルドレン』の収録曲用にあらためてレコーディングされ、ビートルズの"Yesterday"的な曲としてテレビの『エド・サリヴァン・ショー』で披露されると、ラジオからの要請でアメリカでシングル・カットされトップ10入りを果たすヒットとなった。イギリスでは、その後"19th Nervous Breakdown(19回目の神経衰弱)"のB面曲としてリリースされた。

“Paint It, Black”(1966)


60年代のストーンズを代表するヒット曲のひとつで、今も"(I Can’t Get No)Satisfaction"とともにライブのレパートリーとしても欠かせない名曲。恋人の死に直面し葬儀に臨んだ心境を歌った曲になっていて、もともとはブルース・ナンバーとして『アフターマス』用のセッションで制作が進められていた。曲の展開で煮詰まってしまっていたところ、ビル・ワイマンが試したオルガンのリフがきっかけとなってヴァース部分やイントロの東洋的な音階のフレーズが生まれ、これが突破口となって楽曲として完成した。ブライアンの弾くシタールもこの独特な旋律とともに楽曲にエスニックな響きをもたらしていて、サイケ期を先取りするサウンドに大きく寄与している。完成するとシングルとしてイギリスとアメリカで1966年5月にリリースされ、チャート1位に輝いた。

“Ruby Tuesday”(1967)


"Let’s Spend The Night Together(夜をぶっ飛ばせ)"とカップリングされた両A面シングルとして1966年の『ビトウィーン・ザ・バトンズ』のセッションで制作された曲。ブライアンのリコーダー演奏やビル・ワイマンとキースのダブルベース演奏など、中期ストーンズを代表するサウンドが聴けるだけでなく、抒情性に満ち、非の打ちどころのないメロディを持つストーンズにおける究極のポップ・ソングとなっている。楽曲は音楽も歌詞もほぼキースによるもので、60年代中盤に交際を続けていたが、ジミ・ヘンドリックスのもとに走ったセレブ女子リンダ・キースとの別離の心情を歌い上げたラヴ・ソングになっている。66年から67年にかけてのサイケ期にストーンズはいくつもの珠玉のポップ・ソングを生み出していくが、その先駆けとなった名曲。アメリカでチャート1位に輝いた。

“Jumpin’ Jack Flash”(1968)


サイケ期を経てロックンロール、ブルース、R&Bというバンドの原点に戻って復活を遂げた歴史的名曲。キースが新しく開放弦ギター奏法について開眼したことで、バンドはとてつもないダイナミズムも獲得することになり、これを契機にストーンズはR&Bを目指すバンドではなく、体現するバンドへと大きな変貌と飛躍をみせることになった。その最初の試みとして結実したのがこの曲で、『ベガーズ・バンケット』用に進められたセッションのごく初期に完成し、シングル・リリースが決定した。タイトルの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」はキースの自宅の庭師のジャックについての語呂合わせで、歌詞の内容は何重もの寓意となっているが、ミックはサイケ期にまつわる諸々の煩わしさからの脱却を込めていると近年になって語っている。エンディングのさまざまな調べが織り重なっていくアレンジも素晴らしく、まさに黄金期の到来を告げる曲。

“You Can’t Always Get What You Want”(1969)


"Honky Tonk Women"のシングルB面としてリリースされた名曲。基本はギターの弾き語りが軸となるバラードに近い楽曲だが、詩情に溢れどこか哀愁も帯びた魅力的なメロディと60年代という時代性と向き合うドラマティックな歌詞のせいで大作感の漂う楽曲に仕上っている。ロンドン・バッハ声楽隊による圧倒的なコーラス・アレンジも、決して大げさであったり蛇足的だったりするものではなく、まさにこの曲にふさわしい。楽曲はかつて自分が欺かれた女性を中心に、反体制運動や薬物などについての断想が綴られていく。ある時代との決別のような情感が打ち出され、ある意味では"Jumpin’ Jack Flash"の激情の裏にある感傷を説明する楽曲になっていて、とても感動的だ。結果的に『レット・イット・ブリード』の最終曲となり、デッカ時代の終幕を告げた曲となったこともまた象徴的だ。

“Honky Tonk Women”(1969)


"Jumpin’ Jack Flash"以来、新境地に達して空前の傑作群を制作し続けていたストーンズのデッカ時代における総仕上げというべき名曲中の名曲。"Jumpin’ Jack Flash"、『ベガーズ・バンケット』、『レット・イット・ブリード』の各作品で、基本的にストーンズはキースのリズム・ギターを軸にブルースとR&Bの現代的な解釈を圧倒的な新曲群として魅せつけてきたが、この曲では彼らなりのファンクネスも獲得し、まさに70年代を迎えるにふさわしい資質と音を叩きつけていった。歌の内容は行きずりの身持ちの悪い女性たちを歌ったもので"You Can’t Always Get What You Want(無情の世界)"の文学性とはまるで対照的な無頼なもの。しかし、これこそが70年代以降のストーンズの音とキャラクターを決定づけるイメージとなった。シングル・リリース直前に新メンバーのミック・テイラーのギターが重ねられ、リリース前日の1969年7月3日に脱退したブライアン・ジョーンズが自宅プールで変死した。

提供:ユニバーサル・ミュージック・ジャパン

企画・制作:RO69編集部

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