中野雅之×ジャン・ケン・ジョニー、特別対談! BOOM BOOM SATELLITESからの「最後のギフト」に込められたものを語り合う

中野雅之×ジャン・ケン・ジョニー、特別対談! BOOM BOOM SATELLITESからの「最後のギフト」に込められたものを語り合う

BOOM BOOM SATELLITESを初めて聴いた時日本の方だと思わなくて(笑)(ジャン・ケン・ジョニー)


――2015年のツアーのゲストに招いたり、“Hey Now”などでプロデュースを依頼したり、いろんな形でBOOM BOOM SATELLITES愛を表現しているジャン・ケン・ジョニーさんですけども――。

ジャン・ケン・ジョニー そうですね、はい(笑)。

――ジャン・ケンさん自身、BOOM BOOM SATELLITESという音楽なり存在から受け取った一番大きなものを挙げるとすれば?

ジャン・ケン・ジョニー もちろん、直接出会わせていただくまでは、本当にCDだったりとか映像だったり、音を通してしか触れてこなかったんですけど。そこから、本来クリエイターがあるべき「作品そのものが一番雄弁である」っていうことを、作品から打ちつけられてる気がしまして。「こういうアーティストになりてえな」とか「こういうふうにありたいな」とか、そういうことを――勝手ながら、音を通して受け取らせていただいたというか。そういうふうに思わせてくれるバンド、アーティストですね。

――(MWAMの)“1997”という楽曲にも歌われている1997年は、ジャン・ケンさんにとっての音楽的な原点の年ですが、BOOM BOOM SATELLITESにとっては海外に打って出た年でもあるわけで。そういう冒険に挑んでいた先駆者への思いもあったんじゃないですか?

ジャン・ケン・ジョニー そうですね。自分なんかは日本の音楽、つまり「邦楽」で。日本から見た海外の音楽を「洋楽」とカテゴライズするのであれば、日本国内だろうが海外だろうが、明らかにそういうところを度外視した土俵というか姿勢で、世界――特にヨーロッパを賑わせたBOOM BOOM SATELLITESを初めて聴いた時、僕は日本の方だと思わなくて(笑)。後から聞いて「マジか!」と思ったのを、今でも覚えてます。

――逆に、中野さんから見たMAN WITH A MISSIONの、バンドマン目線/プロデューサー目線での魅力は?

中野雅之 それはもう、僕たちとはまったく違うタイプの――マスに強烈に打って出ていく、ポップアイコンとしての強靭さだと思いますね。それは僕たちが持ち得なかったものだと思いますし。今、一緒にお仕事をさせていただく機会も持っているわけですけど、僕にとってもすごく幸運だなと思うのは……僕自身がすごく勉強させられることが多くて。もちろん、MAN WITH A MISSIONにとって何かもうひとつピースを加えていくようなことで貢献していこうとは思っているんですけど。逆に、僕が持っていないピースにどんどん気づかせてくれるところがあって。彼らのポピュラリティにはちゃんと理由があるっていうのを、レコーディング現場で強く感じてますね。

ジャン・ケン 嬉しいですね。そういうことを、自分がずっと憧れてたアーティストに言われるっていうのは……少年野球の子が大リーガーに会えた!みたいな感じがして。「やべえ! バリー・ボンズすげえ!」みたいな。

中野 はははは。

ファンの思念のようなもので形作る川島くんが、だんだん見えてくるわけですよね(中野)


――昨年6月に新木場STUDIO COASTで行われたステージの模様が、今回ライブ映像作品としてリリースされるわけですが。ジャン・ケンさんは実際、あのライブをどういうお気持ちでご覧になりました?

ジャン・ケン・ジョニー いやあ……もう、「最後なんだなあ」っていう。それこそ川島さんがいらっしゃらない状態でのラストライブではありましたので、どうしても自分もセンチメンタルな気分になりながら観てたんですけど。そういう気分を携えながらも、それだけではない神々しいものを見せつけられて。その場に立ち会えたことの、感謝の気持ちでいっぱいですね。しかも、自分が関わった後でそこに立ち会えたっていうのは、ものすごく心に残るものがありました。

――僕もあのライブを拝見していたんですが、現実としては川島さんはいないんだけど、あの場の誰もが川島さんの存在を感じていたという意味で、確かにあそこに川島さんはいたんだなあというふうに、この映像を観て改めて思いました。

ジャン・ケン・ジョニー おっしゃる通りだと思います。自分たちも川島さんが亡くなったっていうことに対する、寂しい気持ちを持ってライブに行ってるんですけど、それ以上に、ご本人が存在しているように感じるほど、音楽に自分たち自身の生き様を刻んできたっていうのが、ライブから、音から感じて――それを僕らにも刻んでくれたっていう印象を受けました。

――実際、中野さんはどんな感覚であの日のステージに立たれていたんでしょう?

中野 当日の演奏をしている気持ちもありますけど、あれを形にするのに1年――企画から制作までかかっているので。「ボーカリストがいない中でやる」っていうシチュエーションの中で、ファンが思い描く川島くんのイメージみたいなものが、ちゃんとステージ上に存在し得るような形っていうのを、かなり綿密に計画して実行していって。で、その日に僕はステージに立っているわけで……ファンの思念のようなもので形作る川島くんが、だんだん見えてくるわけですよね。だから、僕が作っているようでいて、そこに集まっているファンが作っているようなものだなあっていう感覚を持ちながら――幻のようなものなので、それを壊さないように、っていう気持ちでその場に立ってました。

――“MORNING AFTER”とか“KICK IT OUT”で沸き返っていたフロアが、だんだん終盤に向かうにつれて厳粛な空気を帯びていくのがわかりますよね。スピリチュアルという表現はちょっと違うかもしれないですけど――。

中野 いや、スピリチュアルだと思いますけどね。結局、いない人間のエネルギーみたいなものを表現したり、それを感じて受け取ったりとか。で、その思いをまたステージにぶつけてくるっていうのは、完全にスピリチュアルな行為、現象だと思うし。それをタブーにするつもりもないっていう。そもそも「そういうものになるだろう」っていうのを想定してずっとやってきたので。実体がないようであるけれども、みんながその日、その気持ちになれたっていうことは、ある意味「本物」を見たんだと思うし、それでよかったんじゃないかなと思いますね。

――確かに、あのライブは「川島道行トリビュートライブ」ではなくて「ファイナルセッション」だったし、その形であることが中野さんにとっても大きかったんでしょうね。

中野 はい。ライブバンドとしてみんな生きているわけですけども、ああいう機会を持つことは生涯の中でもそう多くはないでしょうし、もしかしたらみんなが経験できることではないかもしれないし。でも、僕はやっぱり、しばらく……たとえばMAN WITH A MISSIONのメンバーに「ライブに来てください」って声をかけられた時に、僕はライブバンドのライブを観るっていうのは何より大好きなことなんですけど、やっぱりライブを観るっていう行為自体がとても辛かった時期も正直あります。まあ、未だになんかこう、まっすぐ凝視できないような感覚も実際あったりするんですね。フェスに遊びに行ったり、誰かのワンマンを観に行ったりしても、何か自分が奪われてしまったものに触れているような感覚で、胸が痛い時もあって……やっぱり羨ましくもあるわけですよね、元気にステージを駆けずり回って演奏して歌ってる姿を見ると。そういうところを奪われてしまった中で、僕が持ってる思いとか――あるいは川島が、ライブに対してものすごく憧れの思いを持ったまま亡くなっているので。もちろんファンにも、もう二度とBOOM BOOM SATELLITESのライブを観れないと思っていた人たちに見せるわけですけど……僕の青春のバンドなんで、本当に、ああいう形で見せられてよかったなと思います。今、ちゃんとライブがやれてツアーがやれて、っていうバンドがたくさんいて、いろんな思いが僕にはありますけど、「ちゃんとやりきれた」ことは誇りに思います。これからも、いろんな形で音楽に携わって、音楽でいろんな方に恩返ししていけたらな、っていうふうに思って日々を過ごしています。

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