映秀。が2ndアルバム『第弐楽章 -青藍-』で掴んだ本当の「映秀。」の姿とは一体何だったのか?

映秀。が2ndアルバム『第弐楽章 -青藍-』で掴んだ本当の「映秀。」の姿とは一体何だったのか?
《僕が何者かは僕自身が決めるんだ》――今年3月にリリースされた1stアルバム『第壱楽章』の“零壱匁”で、映秀。はこんなふうに歌っていた。「誰にどう呼ばれようと、僕は自分自身の音楽を作っていく」。あらゆる物事にタグ付けされ、横並びの生き方を強いられる時代に、彼はありのままの自分を肯定しながら、そう力強く言ってのける。
“東京散歩”も象徴的だ。何もかも白黒つけたがり、現実もSNSも逃げ場のない社会で、《“成功失敗”だけが物差し/なんだかそんなのつまんないよな》と言い放つ勇気。映秀。の言葉はリアリティをもって響く。「そんな考え方もあるのか」という気付きがある。

本人は音楽家としてのアティテュードについて、筆者による『ROCKIN’ON JAPAN』1月号(11月30日発売)のインタビューでこう語っていた。

「自分の大元に『人のきっかけになりたい』というテーマがあって。『僕はこう生きてるよ、みんなはどうする?』という提案をしたい。19歳の自分がどう生きてるかを歌って、それをきちんと残していけば、誰かが立ち止まるきっかけになるのかなって」

映秀。は10代特有のセンスでもって、窮屈な固定観念から解き放たれ、境界線を軽やかに飛び越えていく。その柔軟な生き様でもって、「成功・失敗」だけが物差しの二元論から解き放たれた、「別解」というオルタナティヴな可能性を示そうとしている。

先ごろ発表された2ndアルバム『第弐楽章 -青藍-』で、鋭敏な作家性はさらなる進化を遂げたようだ。冒頭の“第弐ボタン”で、《きっと空の境目は/自分の色なんか気にしていないな/そうだ僕だって/何色かなんてもう要らないや》と歌っているように、彼はここでも自分だけの音楽を鳴らそうとしている。映秀。の音楽は自由そのものだ。「Z世代はジャンルレス」という紋切り型の解釈には収まらない、何もかも呑み込みそうなエネルギーと爆発力、それに美しい詩情を感じさせる。

リード曲の“脱せ”では、葛藤からのブレイクスルーを試みる歌詞と連動するように、突き抜けたサウンドが巧みに奏でられる。二胡を思わせる流麗なイントロから、ラテンの要素を漂わせる鍵盤とパーカッション、ロック的なダイナミズムが炸裂するサビを経て、EDMマナーのブレイクを挟み込む。複雑なアレンジをさらっと聴かせる手腕にも驚かされつつ、やはり目を見張るのは映秀。のボーカルだろう。バックの演奏と連動しながらリズミカルに歌い、《脱せ》《惰性》《だっせー》と韻を踏みながら、ラップさながらに言葉の弾丸を放つ。


ラップと歌を横断するスタイルは大きな武器で、ディアンジェロの名曲“Spanish Joint”を、トラップ以降のセンスで再解釈したような“諦めた英雄”では、優雅でしなやかなフロウも披露している。ただ、本人としてはラップを特別意識しているわけでもないらしく、「たまたま気づいたらそうなってた」、「それに『ラップ』という名前がついてた」というのだから末恐ろしい。

その一方で、“明白に黒”では、YouTubeチャンネル「ジェラfeat.映秀。」で見せてきたようなギターの弾き語りと、高校時代のバンド活動でも追求したオルタナ〜シューゲイザー譲りの轟音を、ジェットコースターさながらの迫力で行き来している。こういった膨大な情報量とともに、針が振り切れそうなまでの激情も彼の持ち味。情感豊かに歌い上げる“雨時雨”では、もともと声楽で東京藝術大学を目指していたという、彼のポテンシャルがいかんなく発揮されている。

個人として突出した才能を持つ一方で、人を惹きつけるオーラもまた彼の魅力なのだろう。「(改めて振り返ると)『第壱楽章』は『映秀』だったなと。名前の『。』がついてない、僕個人という感じ。それに対して『第弐楽章』は、周りの仲間が引括まれた『映秀。』のサウンドになったと思います」と述べていたように、映秀。を知るうえでは「人との出会い」も欠かせない。

まずは、Cateen名義のYouTuberとしても知られる、天才ピアニストの角野隼斗。「声楽をやってた頃の先生が、『パリで知り合った友人を紹介するよ』と声をかけてくれて。それでセッションしてみたら、すごくグルーヴが合ったんですよね」とのことで、彼は演奏のみならず、アレンジや作曲面でも映秀。を支えてきた。
miletを筆頭に、櫻坂46安室奈美恵にも携わってきたプロデューサーのTomoLowは、『第弐楽章』で前述の“第弐ボタン”と“脱せ”、“失敗は間違いじゃない”の冒頭3曲を担当。国内外のトレンドを取り入れつつ、特定のジャンルに縛られない独創性が持ち味で、打ち込みと生演奏を絶妙にブレンドさせながら、スケールの大きな世界観を演出している。

さらにプロデュース陣では、斉藤和義GRAPEVINEのサポートで知られる高野勲も、熟練のミュージシャンを率いつつバックアップ。かと思えば、前述の“諦めた英雄”ではプロデューサーである市川豪人のもとに、杉村謙心、山本修也、榎本響という映秀。と同年代のミュージシャンたちが集結。年齢や世代にとらわれない風通しのよさも、本作のフレッシュなサウンドに繋がっているのかもしれない。
また、メロウな曲調の“砂時計”では、Kan Sanoがプロデュースを担当。ネオソウルを奏でるカナダの鍵盤奏者、アノマリー(Anomalie)を影響源に挙げるなど、映秀。は洒脱なサウンドが大好物。この共作も彼自身が強くリクエストしたものだとか。

そして、『第弐楽章』のフィナーレを飾る“喝采”は、CRCK/LCKSのリーダーで、CharaTENDREceroなどのサポートでも知られる小西遼がプロデュース。CRCK/LCKSの盟友である石若駿と井上銘、Yasei Collectiveの中西道彦、tricotの吉田雄介、若手屈指のピアニストこと和久井沙良、蓮沼執太フィルやD.A.N.などを手がけるエンジニアの葛西敏彦という強力布陣が脇を固めている。


アルバムタイトルに添えられた「青藍(せいらん)」という色は、“喝采”が持つ明治初期のイメージから連想したものだという。この曲について、映秀。の念頭にあったのは、日本人に刻まれた盆踊りのリズムと、ブラックミュージックの立体感のあるグルーヴ。そういう意味では、常田大希のmillennium paradeと(無意識的に)通じるようなコンセプトとも言えるだろうか。

“喝采”について、彼はこんな話もしている。

「みんなが自分たちの欲求のために生きてきた結果、地球がなくなっちゃうかもしれない。それはまずいと。でも、ここまで歩んでしまったのは仕方ないから、まずは僕が祈ろうと思ったんですよね。《どうか どうか/この世を笑えていますように》って」

明治の文明開花のあと、日本に待ち受けていたのは国家の崩壊だった。同じように今日の社会では、人々が文明の発達を追い求めて《常に上を見上げんと》してきた結果、気候変動という脅威が圧しかかっている。海外ではトップアーティストの多くが環境問題と対峙しているが、日本のメインストリームでそんな歌を聴く機会はほとんどない。映秀。に希望を感じてしまう理由は、こんなところにもある。

彼は『第壱楽章』のあとに大きな挫折を味わったそうだが、そこから多くを学び、より広い視野を獲得したことが『第弐楽章 -青藍-』から伝わってくる。短いスパンで2枚もアルバムを出しながら、彼の音楽は何色にも染まることなく、今も無限の可能性を秘めたまま。この窮屈な世界を脱しながら、どうか大きく羽ばたいてほしい。(小熊俊哉)


映秀。の撮り下ろしインタビューは、11月30日(火)発売の『ROCKIN'ON JAPAN』1月号に掲載!

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