M:ここで少しお話を戻したいのですが、僕にとってのあなたは『Larks' Tongues in Aspic』での活動が特に印象的なので、先程クリムゾンについてお聞きしました。
実は、僕はあなたがイエスのアルバムにも参加していることをしばらく知らなかったんです。
なので、あなたのキャリアを遡ってお聞きしたいのですが、イエスにはどのようないきさつで参加することになったのですか?
B:イエスは私が入った初めてのバンドだった。私たちはまだとても若く、18歳か19歳。バンドの最年長が21歳か22歳だった。そしてメンバーはUK各地から集まっていた。バンド・リーダーのジョン・アンダーソンは北部のアクリントン出身で、私は南部の出身だったから、彼が何を言っているかはおぼろげに分かるいう感じだったよ(笑)
M:(爆笑)
B:それにメンバーの専門知識も多岐に渡っていた。王立音楽アカデミー出身のリック・ウェイクマンがキーボード担当で、彼は素晴らしかった。AセクションからBセクションに繋げるためのスマートなハーモニックスを何度も提供してくれた。
例えば、AとCという全く合わない2つのパートがあるとしよう。そこでリックに「このパートとあのパートを演奏したいんだけど、上手く合わないんだよね」と言う。すると彼は「僕に任せて」と、ハーモニックスを加えたり、キーを変えたり、微調整して、気付くと自分がたどり着きたかったセクションCにつないでくれるんだよ。
M:それはすごいですね。ちなみにそれはどのようにして進められるのですか?彼が別の場所で、1人の時にやるのでしょうか?
B:いや、リハーサル・ルームでみんなが一緒にいるという、ひどい状況だよ。「リック頼むぞ、まとめてくれ!」と言う感じでね。そういう進め方だった。
私が若い頃、ファースト・アルバムの制作はPolydor Recordsからのリリースだったのだが、レーベルの人たちが私にヘッドホンをくれたんだ。自分の音を聴くためにね。
それまで私は、ヘッドホンをつけることで他の楽器の音を調節できるということを知らなかった。そんなことができるなんて、アルバムの終盤まで気付かなかった。だからファースト・アルバムを録音している時はほとんど、片側からはギター音が爆音で聴こえて、もう片側からはボーカルのリバーブ音しか聴こえていなくて、その間にある音はほぼ聴こえていなかった(笑)
ひどい話だよ。私はレコーディング・スタジオというものがどんなものであるかさえ知らなかったからね。
M:とても興味深いお話ですね。イエスのバンドの皆さんとはどのようにして出会ったのですか?
B: Melody Makerという新聞に自分の広告を出しだんだよ。「敏腕ドラマー!街一番のドラマー!」と書いてね(笑)
ジョン・アンダーソンとクリス・スクワイアが2人でバンドを結成した日に「今夜ギグがあるから一緒に演奏しよう」と私に電話してきた。そしてギグでウィルソン・ピケットの“In the Midnight Hour”を20分間くらい演奏した。私たちが演奏できたのはその曲くらいだったからね(笑)
M:それはどこでやったんですか?
B: デプトフォードにあったRachel McMillanという大学だよ。久しぶりにこの名前を口にしたな(笑)。
そこでギグをしたけど、全然まとまりがなかったよ。最近のバンドと我々の大きな違いは、最近の人たちは強いプロ意識を持ってやっているということ。
君のマネージャーもそうだし、君もそうだし、あそこにいるこの企画の音声担当のマックスでさえ、強いプロ意識がある。みんな非常にプロ意識が強くて、自分の仕事を理解している。私が活動していた頃は、音楽ビジネスというものを発明している真っ只中だった。
M:そうですよね。
B:第二次世界大戦直後は、スキッフルのようなダンス・バンドによるアルバムがいくつかあったくらいで、その後にロックンロールが誕生して、ビートルズが出てきた。そしてビートルズも含めて、当時は、みんなが手探り状態で全てを進めていた。
スタジアム・ギグがどういうものかも知らないし、レコード契約がなんなのかも知らないし、みんなその場で作り上げていく感じだった。
私の初めてのレコード契約書は4ページあったけど、それさえも私は読んでなかったと思う(笑)。その上、署名できる年齢に達していなかった!だから全て違法だったんだよ。
パブリッシングやソングライティングについても誰も何も知らなかったけど、苦労して学んでいったよ。だから、荒削りで雑な部分もあったと思う。
M:とても面白いお話です。右も左も分からない中で音楽業界や音楽制作が発展していったということは素晴らしいことだと思います。その過程がまさに当時の音楽に反映されていると思うのです。
B:確かに反映されているね。それに加えて私たちのバンドは、尺の長い曲を作りたいと思っていた。だからブラック・ミディみたいに1つの曲を通しで演奏するということができなかったんだ。まだ曲の全ては作られていなかったからね。
スタジオで作曲し、素晴らしい24小節分の楽句ができて、それが最高だという意見で一致して、みんなで楽器を下ろして「じゃあこの曲の次の展開はどうする?」と話し合う――後でリックが全てを繋げてくれるんだが――そこで他の誰かが別の楽句を24小節分作る。そしてそれをレコーディングする。
M:それを実際のスタジオでやるんですか?
B:そう。全てをエディットして繋げる必要があったし、全てテープ編集だったから。2インチくらいのテープを丁寧に切って繋げていた。
そしてその夜はギグがあるから、機材をバラして、スカンソープかどこかで演奏して、またスタジオに戻り、機材を同じサウンドになるようにセッティングして、最後のセクションに取り掛かる、という流れだった。
その作業の終盤になるとようやく曲の全体像が見えてきて、曲を通しで演奏できるようになる。面白いだろう?
M:とても面白いです。
B:だからマスターテープを聴き直すと、自分が指を鳴らすクリック音が所々に入っていて、そこがエディットされた箇所だということが分かる。テープ編集しかない時代だったからね。とても時間のかかる作業だったよ。
M:達成感もあったことでしょうね。
B: 達成感は確かにあったね。曲の展開が見えてくる時の感覚は素晴らしかった。
M:なぜあなたが僕にとって偉大な存在であるかというと、あなたのドラムは、聴くとすぐにあなたのドラムだということが分かるからなんです。
音を聴いて2秒以内にそれが分かります。ドラム・サウンドの中でも、あなたのスネア音は個人的にはシグネチャー・サウンドだと思っています。
B:私のスネアの叩き方は、他の人とは違っているようだね。私のスネアはオープンな鳴りがあって、当時のスタイルにしては珍しかった。
当時はウェットでデッドなスネアの音を求めている人が多くて、まるで濡れたニシンで頭をペチペチされているような音だった。
M:70年代ですからね。
B:ハッハッハ、70年代。その通り!私はあまりその音が好きではなかったから、もっと抜けの良い音にしたんだ。だが私はいくつものスネア・ドラムを弾いていたんだよ。
そしてチューンアップには30秒以上かけなかった。だから実際のドラムがどうこうというわけではなくて、どのように叩いていたのかで音が変わっていたんだ。君はおそらく、というか当然のように分かっていると思うけれどね。
私が何を言いたかったのかと言うと、ドラムのサウンドも私の演奏の個性を表している要素だと思うけれど、ビートをどこに入れるかという配置もまた、個性を出す要素になっていると思う。
M:まさにそうです!
B:私はバックビート演奏をしていなかったからね。分かりやすく言うとそういうことなんだよ(笑)
目立とうとしていたんだ。他のドラマーはみんな、バックビートを演奏していたから自分自身の専門分野を見つけないといけないと思った。
M:僕はドラム・パートを考える時に、あなたのそういう所から直接的なインスピレーションを受けていますし、近代におけるドラム・ビーツはバックビートが土台となっていると思います。
B:そうだね。
M:なので、僕はその考えから意識的に離れようとしてきました。今ではバックビートを演奏することが自然だと感じられないので、即座にバックビートを演奏するということは無くなりました。もちろん、その時の音楽がバックビートを必要としているのなら話は別ですが