【コラム】10-FEETの新曲“ヒトリセカイ”を聴くべき本当の理由ーーTAKUMAの絶唱、決死の光、そのすべて

【コラム】10-FEETの新曲“ヒトリセカイ”を聴くべき本当の理由ーーTAKUMAの絶唱、決死の光、そのすべて

《明日にはもうそこには、もうそこには、、》

希望の最後の一滴まで枯れ果てたような荒涼とした寂寞感と同時に、聴く者すべての絶望を焼き払うほどの渾身のダイナミズムに満ちたTAKUMAの絶唱――。
音源で聴いても、ドラマ『バイプレイヤーズ』のオープニングで名脇役6人のダンディズム漂う佇まい越しに聴いても抑え難く胸震える10-FEETの新曲“ヒトリセカイ”だが、この曲が何より凄いのは、魂の焼け野原から響くような凄絶な歌が、決して現在のTAKUMAの「メーター振り切った衝動極限炸裂」の結果ではなく、彼自身のデフォルトの状態の発露である――とリアルに伝えてくることだ。

ご存知の通り、10-FEETは前作シングル『アンテナラスト』までの間、実に約4年間に及ぶ新曲リリースの空白期間があった。
もちろんその間もライブ活動は積極的に展開していたし、バンドとして「止まっていた」わけではまったくなかった。が、TAKUMAはそれまでの「延長線上」で楽曲を作ることを良しとしなかったのだろう。ということが、今回リリースされたニューシングル『ヒトリセカイ×ヒトリズム』の“ヒトリセカイ”を聴くとよくわかる。

同じくリミッター外れたアグレッシブな絶唱を聴かせる“その向こうへ”も、《世界に別れを告げる日の朝 僕は誰を想うのだろう》というシャウトが心を射る“淋しさに火をくべ”も、ここまで哀しく枯れた空気感は備えていなかったし、震災後の哀しみや虚脱感と真っ向から向き合った“シガードッグ”も、ここまで触れる者すべての魂を延焼させるような獰猛さまでは備えていなかった。
それだけこの“ヒトリセカイ”という曲は、10-FEETのエッセンスは濃密に感じさせつつも、今までの鳴り方とはまったく別種の楽曲である――ということは、この曲に触れた多くの人がすでに感じていることと思う。

《明日にはもうこのセカイは、、もうこのセカイは》

明日には「このセカイ」がどうなるのか、この曲の中では一切語られることはない。が、《嗚呼、ひらがなみたいな愛や優しさを/まっすぐに見つめれないそんな日がありますか/ありがとうとさよならを一つにした様な/笑顔で悲しみも理由に変えて》や《嗚呼、神様僕を、僕を騙してくれないか》というフレーズは、正気を保つことすら困難な絶望感を十分に予感させるものだ。
そして、後半の《朝はもうそこに来てた、、そこに来てた》という歌の熱量によって、出口なき暗闇に死に物狂いの光を灯す――。そんな途方もないスケールの楽曲に説得力を与えているのは、他でもないTAKUMAの、常時自然発火状態のエモーションそのものだ。

そして。個人的にこの曲を聴いて真っ先に思い出したのが、昨年末に福岡ヤフオク!ドームで行われた「AIR JAM 2016」の舞台で、TAKUMAが想いの丈を全身全霊傾けて、それこそ己の全存在を懸けているようなテンションで叫び上げた言葉だった。「Hi-STANDARDがおらへんかったら、俺らは10-FEETもやってへんかったし、『京都大作戦』もやってませんでした! 衝撃をありがとう!」――全身震撼必至の絶叫には確かに、“ヒトリセカイ”と同質の悲壮な爆発力が備わっていた。

どこまでもまっすぐに、シンプルに、揺るぎなく想いを研ぎ澄ませ解き放つことで、ロックという言葉すら振り切るほどの強烈な衝撃とヴァイブを体現しつつある10-FEET。そんな10-FEETの/TAKUMAのスリリングなまでに熾烈な現在地を、“ヒトリセカイ”は厳然と指し示しているのだ。(高橋智樹)

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