坂本龍一、英メディアでキャリアを振り返る。ボウイと疎遠になったことが「大きな心残り」


坂本龍一「The Guardian」のインタビューに答え、これまでのキャリアの中で関わってきたデヴィッド・ボウイワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、ヨハン・ヨハンソンらとの関係性について語っている。

坂本龍一は「非同期」をテーマにした8年ぶりのオリジナル・アルバム『asynch』を昨年リリースし、アルカらによる『asynch』収録曲のリミックス・アルバムとなる『ASYNC - REMODELS』を昨年末にリリース。

今月にはさらに、長年のコラボレーター、アルヴァ・ノトとの2016年のパフォーマンスを収録した『Glass』のリリースを控えているが、昨年ノルウェーのオスロで坂本が田中泯や中谷芙二子らとのコラボレーション・パフォーマンスを上演した際に行われたこのインタビューの中で、これまでの自身のキャリアについて以下のように簡潔に振り返っている。

まずは坂本自身が2014年にがんとの闘病を経験したことを踏まえ、オスロでのパフォーマンス、あるいは最新作『asynch』が「老い」や「死」と向き合ったものなのかという記者の問いに次のように答える。

ぼくは2009年頃から自分の音楽に死というテーマが表れ始めたのに気付いているよ。ピアノのサウンドの衰退と消滅は生と死をよく象徴しているように思うんだ。それが悲しいと言っているわけではなくて、ただ、そのことについてよく空想するということなんだけどね。




さらに『ASYNC - REMODELS』に参加しているワンオートリックス・ポイント・ネヴァーについては「ずっと何年前から深い関心を持ってきた」といい、ヨハン・ヨハンソン(2月9日に逝去)に関しては「いい友達だ」と説明していて、こうした人たちと「是非将来的にコラボレーションをしてみたい」と明かしているが、その一方で、ここのところの自身の音の趣向を次のようにも説明している。

バイオリンやオルガンに惹かれるんだよ。ああいう時代に褪せないサウンドこそ永遠性を象徴していると言ってしまっては安直すぎるかな?


そのほかでは自身の生い立ちやキャリアを簡単に振り返っていて、父親が大江健三郎や三島由紀夫を担当する編集者だったため、実家では「作家志望の若者や若手の作家が入り浸っては朝まで飲んでいることが多く」、自由な空気の中で育ったことを振り返っている。また、11歳でザ・ビートルズザ・ローリング・ストーンズに熱中したことやその後の音楽的な遍歴を次のように説明している。

ぼくには連中がイギリス人なのかアメリカ人なのか、そんな区別はまるでつかなくて、ただ西洋のものだったんだ。ただ、大好きだったんだ。だから、一方でポップ・ミュージックを聴いていて、もう一方ではバッハやハイドンを聴いていたんだけど、13歳の時に初めてドビュッシーを聴いたんだよ。

これはムードや空気感をかもしだす音楽で、東洋とか西洋とかそういう区別とはまるで関係ないものだったんだ。アジアの音楽がドビュッシーに影響をもたらして、そのドビュッシーがぼくに影響をもたらした。すべてがそういう大きな巡り合せになっているんだよ。



その後進んだ東京芸術大学では、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・ストックハウゼン、ジョルジュ・リゲティ、ヤニス・クセナキスなどの現代音楽に取り組んでいたが、その傍らでフリー・ジャズのバンドで演奏し、1972年に「新宿の小さな小さなバー(新宿・ゴールデン街)で出会った」フォーク・ミュージシャンの友部正人のツアーに参加することになったことを振り返っている。

大学の研究ではコンピューターを使っていて、昼間はジャズを演奏して、午後は西海岸のサイケデリック・ロックや初期のクラフトワークのレコードを買って、夜はフォークを演奏していた。かなり忙しかったんだよ!


その後、音楽業界への人脈を得ると、セッション・ミュージシャンとして活躍するようになり、高橋幸宏やその後イエロー・マジック・オーケストラを結成することになる細野晴臣らとの知己を得ることになった。

当時は細野さんのセッションに声をかけられることは名誉なことだった。後になって実はこの時のセッションがイエロー・マジック・オーケストラ結成のためのオーディションみたいなものだったとわかったんだけど。

セッションから間もなくして、京都にあった細野さんの自宅に呼ばれたんだ。そこで細野さんが自ら描いた絵を見せられてね。そこには富士山が噴火しているのが描かれていて、「500万枚セールス」と書かれてあったんだ。

インディ・ミュージックを作ってそれを日本から世界へと売り出していくというのが細野さんの構想だったんだね。そのアイディアが気に入ったからぼくも話に乗ったんだよ。



イエロー・マジック・オーケストラは世界的な人気を誇る先駆的なテクノ・ポップ・バンドとなったが、その後坂本はポップ・スターダムから見事に身を引いて活躍の場をサウンドトラック制作へと移す。1983年の大島渚監督の『戦場のメリー・クリスマス』を皮切りに、1988年のベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』ではアカデミー賞のほかさまざまな賞を総なめにし、その後も数多くの作品を手がけることになる。

その一方で、デヴィッド・バーンイギー・ポップブーツィー・コリンズブライアン・ウィルソンデヴィッド・シルヴィアンなどとのコラボレーションも精力的に行ったが、「The Guardian」は近年ではよりアヴァンギャルドかアブストラクトなコラボレーションが目立っていると指摘。とはいえ、2015年のアルヴァ・ノトとのコラボレーションとなった映画『レヴェナント: 蘇えりし者』はゴールデン・グローブ賞の最終候補に残るなど、作品への評価は変わらず高い。

最後に坂本は唯一不満に近いものとして、1年の予定に満足できるだけの活動を詰め込めないことだと述べていたという。さらに『戦場のメリークリスマス』で共演したデヴィッド・ボウイについても、ニューヨークの同じ界隈に住んでいたにも関わらず旧交を温められなかったことは「ぼくの大きな心残りだ」とも語っていたようだ。