‎なぜ小沢健二はライブの終わりに「日常に帰ろう」と言うのか

特に『LIFE』期と、その後数年続くヒットシングル連発期、小沢健二の音楽を聴くことは、誤解を恐れずに言うなら、恥じらいと隣合わせにあった。
それは恥じらわずにはいられないくらいの情熱と高揚感が、特にその時期の小沢健二の音楽にはあったから。
しかし同時に小沢健二は、そんな日常と非日常の間の「恥じらい」のゾーンでまごついているリスナーたちの手を王子様のように引いて、一気に非日常へと連れ去る類稀なるエンターテイナーでもあった。

音楽家たちが音楽を聴くために集まった人々の前でとっておきの音楽を鳴らす特別な非日常の時間、たとえそこに日本武道館の屋根があったとしても、屋根なんてないということにしたっていい。
音楽がなければ生えない想像力の翼でどこまでも飛ぼう。
一歩でも気持ちが引いてしまったら恥ずかしくなってしまいそうなところを、誰一人そうはさせない、20年以上のときを経て小沢健二は今、あの頃の小沢健二に似ている。

誰よりも熱い情熱を持っているから、とてつもない冷静さも持っているのか、誰よりも冷静な知性を持っているから、どこまでも熱くなれるのか。
どちらなのか未だにわからない。
でも音楽という非日常が持つ可能性を無限大でとらえているからこそ、小沢健二は最後に「日常に帰ろう」と言う。
その瞬間、恥じらいとはまた正反対のゾクッと鳥肌が立つような感覚があり、そこで「これがオザケンだ」という定義が完結する感じがする。(古河晋)
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