三浦大知はなぜアルバム『球体』でポップミュージックの新フォーマットとも言える斬新な表現に向かったのか?

三浦大知はなぜアルバム『球体』でポップミュージックの新フォーマットとも言える斬新な表現に向かったのか?
8月22日のニューシングル『Be Myself』や9月からの新ツアーも控えている中だが、三浦大知のニューアルバム『球体』の衝撃が収まらないので、そのことを書いておきたい。実に3年半にも及ぶ構想・制作期間を経て届けられたこの渾身の作品は、ポップミュージック体験として考えられ得るすべての要素が斬新かつ刺激的な、しかも三浦大知にしか生み出せない作品になっている。

昨年からのツアーを経て、初のベスト盤リリースで自身初の週間アルバムチャート1位を記録した三浦大知は、5月から6月にかけて全国10公演の「完全独演」公演「球体」を開催した。披露される全曲が新曲、徹底的に構築された一人きりのシアトリカルなパフォーマンスは、演出・構成・振付も三浦大知自身によるものだ。類稀な歌唱力と、「身体を演奏する」ダンス技術。いずれも最高レベルの実力を誇る彼が見せたキャリアの最新フェーズは、極めてコンセプチュアルな総合芸術となっていた。

『球体』は言わばそのツアー「球体」のサウンドトラックとしての側面を持ち、すべての公演日程を終えたのち(当初の発売日はツアーファイナルの名古屋公演当日だったが、延期された)7月11日にリリースされた。アルバム『球体』の特設サイトがまた非常に興味深い構成になっているので、ご覧になっていない方はぜひ触れてみてほしい。そこでは、収録曲1曲1曲の無音のステージパフォーマンス映像と、歌詞が表示される。つまり、ここには「音楽」だけがない。音楽を除いた表現で、音源作品である『球体』をプロモーションしているのだ。言わずもがな、ここに不在の「音楽」は強烈な興味をそそることになる。

『球体』収録曲すべての作詞・作曲・編曲を担当しているのは、Nao’ymtこと矢的直明。三浦大知のセカンドアルバム『Who’s The Man』へと至る時期から音源制作に携わり、また自身もソロアーティストとして活動してきた彼は、新作『球体』でNao’ymtのフィルターを通した三浦大知作品なのか、それとも三浦大知のフィルターを通したNao’ymt作品なのかと思えるほど、このプロジェクトに深く携わっている。文学的でエモーショナルな歌詞、砂や飛行船といった印象的なフレーズを通して相互に絡み合う楽曲の演出、そしてアンビエントからフューチャーベース、ポストクラシカルと際限なく広がるサウンドまで、Nao’ymtの果たしたクリエイティブな役割はあまりに大きい。

三浦大知とNao’ymtによる『球体』の共同作業の凄いところは、必ずしも単純明快な歌いやすい楽曲、踊りやすい楽曲を目指していないところだ。むしろ、お互いの内面の深い部分にあるものを抉り出すように、よりエモーショナルで物語的な音楽とダンスを目指し切磋琢磨している。足並みを揃えて、などといった表現では追いつかないほど、容赦なくお互いの最高レベルの表現を要求している。これは、ふたりの深い信頼関係があればこそ成せる業だろう。最高レベルの表現がもたらす衝撃や感動こそが、ポップなのである。

新作制作→リリース→ツアーというルーティンが当たり前になっている今日だが、『球体』はそもそもコンセプチュアルなライブパフォーマンスを前提に生み出された。ライブの事件性が作品のセールスに繋がるというのは、インターネットが普及するよりも遥か昔、ラジオやTVが音楽作品のプロモーションとして機能するよりも以前の、音楽マーケティングとしてもっとも原始的な方法だ。三浦大知は『球体』でそこに立ち返っている。なぜか。ライブで、誰も触れたことがないような衝撃と感動を与えることができる、という自信があったからだ。それが結果的に最も効果的なプロモーションにもなるからだ。

音楽作品のセールスが低迷して久しい今日、多くのアーティストが新しいリリース方法を模索し、実践している。そんな中で、三浦大知『球体』は、アーティストが持ち得る表現方法のすべてを磨き上げ、それを余すことなく伝える方法を探り、トータルな表現の質そのものが直接セールスに結びつくという、清々しいまでの論理に基づいてリリースされた傑作なのだ。(小池宏和)

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