『けもなれ』ロスが他のドラマの「ロス」とかなり味わいが違うことについて

先日、野木亜紀子脚本のドラマ『獣になれない私たち』が最終話を迎えた。
放送前の情報のイメージよりも遥かに野心的な内容だったこともあり、さまざまな論評がされていたけれど、視聴率とか過去の作品とか関係なく支持するたくさんの人に最後までしっかり見守られて、高視聴率ではなくても「残る」ドラマになったと思う。
ちなみに僕は第1話の放送後に以下のブログを書いた。
---
このドラマのキーとなるのは世の中の「理不尽」。
職場の理不尽も、恋愛や結婚にまつわる理不尽も、電車の中の理不尽も、「こんなのドラマの中の話だよね」では全くない、「大きく言えば本当にこんな世の中だよね」な理不尽ばかりでこのドラマの世界はできている。
でも「世の中ってこんなにも理不尽」っていうドラマなんて正直、観たくない。
何しろ現実のニュースと、現実の経験が教えてくれる理不尽だけでも私たちはお腹いっぱいだ。
ただし第1話の最後まで観ると、新垣結衣が演じる晶がその理不尽に苛まれてすり減っているのも、松田龍平が演じる恒星が理不尽な世界の一部=バカになれたら楽なのにとニヒルに笑っているのも、このドラマのプロローグに過ぎなかったということがわかるのだ。
その理不尽に抗うためのオピニオン&エグジット、つまり晶が業務の「改善要求書」を叩きつけ、コンプライアンスのためでも異性に媚びるためでもない自分のためのファッションで出社したのが、このドラマの本当の始まりなのだ。
だからといって第2話から急激に話が明るく痛快になるわけではないだろう。
それでも晶と恒星がこのドラマの中でどう変わっていくのかは間違いなく「獣になれない私たち」に粘り強く希望を見せてくれるはずだ。
野木亜紀子自身が、どんな批判に対しても逃げることなく粘り強く正直に対応している姿からも、理不尽に負けないための糧を私たちに提供してくれるストーリーテラーだと感じる。
---
話数が進んでいく中で僕が感じていたのは、想像以上に「粘り強く希望を見せる」ドラマだということだった。
たぶん視聴者が最初にこのドラマに期待したのは、晶や恒星が「理不尽」を打ち負かしていくことだったと思う。
僕もいわゆる「水戸黄門」的な単純な形ではないながらも、晶が今の「ツクモ・クリエイト・ジャパン」という職場の中で「理不尽」に勝ち、恒星が会計士という立場の中で「理不尽」に勝っていくことを想像していた。
もっと言うと「理不尽」を打ち負かしていくストーリーの中で晶と恒星が恋人になるという絵が浮かばなかったので、もしかしたら最後までこのふたりは恋をしないのかもしれないと予測していた。
でも、このドラマが描こうとしていたのは「理不尽」に勝つことではなかった。
そもそも勝てる「理不尽」ならば最初から、仕事のできる晶や恒星がそこまで削られることはない。
自分がいてもいなくてもそこにあり続ける「理不尽」への対処は「勝つ」ことではなくて「捨てる」こと。
「理不尽」に自分を削られることを選んでいるのは実は自分で、このままでは自分が死んでしまうと思うのならば、そこに固執する自分を捨てる道がある。
もちろんその道を選ぶかどうかは自分次第だけど、その退路を自分で断って堂々巡りの中にずっとい続けるのは虚しい。
晶と恒星は、それぞれが「理不尽」を捨てたところに、一緒にビールを飲めて、手を繋ぎながら幸せの鐘が鳴ることを願いたい相手としてのお互いを見つけた。
野木亜紀子がこのドラマで粘り強く描いた希望は、それだった。

多くの人気ドラマが「ロス」を生むように、このドラマも多くの『けもなれ』ロスを生んでいる。
水曜日の夜に『けもなれ』がないことが寂しいと言う意味では、他のドラマと同じ「ロス」かもしれない。
でも、それはあの物語の時間がずっと続いてほしいと言う気持ちではなくて、あの物語の中にもう晶や恒星やその他の登場人物がいなくて、どこかでその先の世界を生きていることを想像するとちょっと気持ちが温かくなる。
寂しいは寂しいけれど『けもなれ』を最後まで観て残ったものを大切に生きていこう、そう思えることが『けもなれ』ロスの独特の味わいなのかなと思う。

ビール飲みたくなりますね。(古河晋)
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする