昨年4月に「ロックの殿堂」入りを果たし、10月には約5年振りとなる来日公演を行ったボン・ジョヴィ。
『ロッキング・オン』2月号では、35年にもおよぶバンドの物語を総括した、全44ページにわたる総力特集を掲載している。
1994年、バンド初のベスト盤『クロス・ロード』のタイミングで行われたジョン・ボン・ジョヴィのインタビューは、デビュー・アルバム『夜明けのランナウェイ』からの10年をジョンが振り返る、集大成的な内容となっている。
1stシングル“Runaway”のヒットに乗じ、バンドはスコーピオンズの前座として最初の全米ツアーに出たのち、キッスのツアー・サポートを務めているが、当時を振り返りジョンは以下のように答えている。
ジーン・シモンズがあり得ないくらい俺たちを手厚く扱ってくれたことは、今でもよく憶えてるよ。ちょっと舞い上がっちゃうほど嬉しい経験だったからね。
俺はよく彼らのライブを観に行ってたし、アルバムも何枚か持ってたからね――そういう人たちと同じステージに立てることになったわけだからさ。故郷に戻った時に、昔馴染みの友達にそんな話ができるっていうのは嬉しいことだった――だから儲けなんて上がらなくても、ホテルで一部屋に3人詰め込まれても全然平気だった。
(中略)生まれて初めてイングランドの地を踏めた上に、バーに行けばキッスのメンバーたちが、調子はどうだって訊いてくれるんだぜ。全部ひっくるめて考えりゃ、なかなか素晴らしい経験だったよ。
その後、1986年の夏にリリースされた3rdアルバム『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』が全米チャートで8週連続でNo.1となり、バンドは成功を収めることとなる。
バンドの絶頂期とも言えるこの時期のことを、アルバムのインスピレーションと合わせて以下のように語っている。
(中略)バンクーバーの山の方に入って行く丘の途中に出てた看板の文句がインスピレーションになってるんだよ。
俺たちはそこで、全員まるで女の子みたいな恰好でフォト・セッションをやらされてね! それがかえって俺たちには幸いしたんだ。
その時みんなで思ったんだよ、俺たちはグラム・バンドじゃねえぞって。ニュージャージーでやってる通りのことをやろうぜ、ジーンズにTシャツって恰好に戻そう!って。
で、それを実行した時、『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』が出たんだよ。俺たちは俺たちにしかなれないって悟って、そもそも俺たちがレコード契約を獲得できた理由もそこにあったはずだって気づいた時、俺たち史上最大級のレコードが生まれたんだ。
バンドの人気は勢いを増していき、1992年に5thアルバム『キープ・ザ・フェイス』をリリースする。
同アルバムはアメリカ本国よりもヨーロッパの方で好セールスを記録したが、当時オルタナティブ系のバンドが幅を利かせるシーンで、ボン・ジョヴィのようなバンドが時代に取り残されてしまうのではないかと懸念を抱いたことはなかったのだろうか。
80年代を思い出す時、俺たちはまさしくその時代を象徴するバンドだった。アメリカであのアルバムが発売になって、No.1に届かなかった時、みんなすぐに俺たちはもう終わりだって言った。それで不安になったかって? そうだね、それはあったと思う。俺の気持ちとしては、もしこれで終わりだとしても、少なくともこれまでいい10年間を過ごさせてもらったよなあ、って感じだった。
でも、ニルヴァーナみたいなバンドからしたら、200万枚もレコードが売れたら素晴らしいってことだろう。なのに、俺たちはアメリカで200万枚売れたって失敗作扱いなんだぜ!
そのことに気付いた時に、あのアルバムで自分たちが成し遂げたことは少しくらい誇ってもいいかも知れないって気がしたんだ。何しろ当時はみんなが業界目線で言ってたからね、「マネジャーなしでやっていけるはずがない。エージェントも弁護士もつけずに活動するなんて無理な話だ」って。
それに対して俺たちは、「そんなのクソ喰らえだぜ! 俺たちは世の中の人が誰ひとりとして相手にしてくれなくたってお構いなしだった、ガレージ・バンドだった頃の俺たちに戻りたいだけなんだよ」って言い返してたわけだ。
同インタビューの他にも、全14枚のオリジナル・アルバムのディスコグラフィー、また昨年行われた来日公演より東京ドーム公演のライブ・レポートなどを掲載している。
栄光と挫折、ボン・ジョヴィの35年にもおよぶその歩みを、『ロッキング・オン』2月号で確かめてみてもらいたい。
ボン・ジョヴィの巻頭特集記事は現在発売中の『ロッキング・オン』2月号に掲載中です。
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