アヴリル・ラヴィーン
『ヘッド・アバーヴ・ウォーター』
2月15日(金)発売
昨年のインディ界で頭角を現したふたりの女性シンガー・ソングライター、スネイル・メイルとサッカー・マミーが、重要なインスピレーション源として少々意外な名前を挙げていた。何を隠そう、アヴリル・ラヴィーンだ。この事実は、彼女のユニークな立ち位置を教えてくれたような気がする。スケート・カルチャーとポップ・パンクに共鳴して、ブリトニーやクリスティーナの時代にあくまでロックを志向し、ボーイッシュなファッションに身を包んでギターを抱えていたアヴリル。02年にデビューし、「自分を偽って物事をややこしくするのはやめようよ」としかめっ面で歌った17歳のシンガー・ソングライターこそは、当時の若い女性たちに「ギターを弾いて自分の想いを主張したい」と思わせた希少な、身近なアイコンであり、フィオナ・アップルやアラニス・モリセットとテイラー・スウィフトの橋渡しをする存在だったのである。
その後も彼女はポップの主流からは一定の距離を保ちながら活動してきたわけだが、5枚目の前作『アヴリル・ラヴィーン』では今思うと、30代突入を前にアイデンティティ・クライシスに陥っていたところがある。ジャンルレス化が進むシーンに適合した新しいスターが続々登場する中で、アヴリルも、エレクトロ・ポップありヘヴィ・ロックありの多様な作品に挑戦。しかし結果的には、居場所が定まらなくなってしまった事実を露呈していた。2度目の結婚をしたばかりだというのに、どこかしら幼いトムボーイ的イメージがつきまとい、“大人のアヴリル”を提示し切れていなかったことも、プラスには働かなかったはずだ。
そういう意味で、長い時間が空いた理由は決してポジティブなものではなかったとはいえ、5年の空白を経て彼女は、音楽への愛情や音楽的原点を再確認。ポップ・ゲームに加わる必要はなく、やりたいことをやればいいのだと悟って、曲ごとの完成度を突き詰めたコンパクトなアルバムでリセット・ボタンを押した気がする。ファーストで多数のヒット曲を一緒に綴ったローレン・クリスティと、ここにきて久々に共作したことが雄弁に物語っているように。
その原点とは特定のジャンルではなく“歌”だ。本を正せば、カントリーのカバーを歌って磨いた歌唱力でデビューのチャンスを掴んだアヴリルは、本作でキャリア最高のボーカル・パフォーマンスを披露している。前作を発表してからライム病を患って2年間寝たきりの生活を送り、人生最大の試練に直面した彼女だが、病気は喉を損なうどころか、かつてない気迫と説得力を声に与え、歌い手としてのポテンシャルを全うするスイッチを入れたらしい。
そんな声を最大限に引き立てるべく、主にヨハン・カールソンとジョン・レヴィーンに託したプロダクションはいたってシンプルに処理され、スペースがたっぷり残されている。また、スタイルの多様さは前作に勝るほどだが、全編を通してタイムレスな生楽器主体のアレンジが丁寧に施されており、オープニングとエンディングに配置したのは王道のロック・バラード。共に病床で綴られ、本作の出発点となった曲だ。うち冒頭の表題曲は言うまでもなく、一時は生死の境を彷徨ったアヴリルが絶望の底から神に救いを求めている先行シングルなのだが、これはアルバム全体のトーンを予告していたわけではなかった。病気との闘い以外にも、ニッケルバックのチャド・クルーガーとの別れ、新しい恋、女性のエンパワーメントなど、取り上げた題材は幅広い。闘病日記を予想していたならあっさり裏切られるだろう。
しかも、“バーディー”や“ダム・ブロンド”は従来のボーイ・バッシングとは趣向を変え、女性の自立を讃えるアンセムに仕上げていたり、ロマンティックなラブ・ソングは渋めの演出で甘さを抑えるなどして、大人っぽさを自然に引き出している。以前ならやんちゃな音に乗せてシャウトしただろう“ゴッデス”は、アコギの弾き語りに落とし込み、“クラッシュ”や“ラヴ・ミー・インセイン”では、思いがけない古典ソウル〜ドゥーワップの様式で実験して。
ブレイクアップ・ソングも興味深い。うっすらカントリー風味の“スーヴェニア”といい、“テル・ミー・イッツ・オーヴァー”といい、関係を断ち切ることを躊躇する微妙な心境を掘り下げており、本作でもコラボは続けているチャドとの関係に重なるものだ。従ってラストの“ウォリアー”からは、病気はもちろんのこと、ひとりの女性として日々様々な闘い・葛藤と向き合っている、等身大の彼女のポートレイトが浮かび上がる。それは傷だらけだ。でも、“大人になんか絶対ならない(Here’s to never growing up)”という前作での誓いが破られたことをリスナーとして歓迎したい。 (新谷洋子)