本日店着、KANA-BOON『生きてゆく』の「切なさ」についてのコラム的な文章
2014.08.26 18:45
KANA-BOONはあらかじめ素晴らしいバンドとしてロックシーンに登場してきた。
颯爽と――という言い方以外に正しい言葉ないと思えるくらい、爽やかに鮮やかに登場してきた。
それは彼らの若さゆえの印象、ということもあるが、それ以上に、彼らが「やってみせたこと」があまりに爽やかで鮮やかだったからだと、今となっては思う。
端的にいうと、あの四つ打ち、高速BPMのロックフォーマットであり、その衒いのない「楽しさ」のことだ。
もちろんフォーマット自体は昔からあるし、四つ打ち自体が新しかったわけではないが、ダンスの王道としてのビートではなく、ロックの新道としてのビートとして見せたクレバーさはやはりとても鮮やかだった。
彼らが「気づかせてくれたこと」は実際、超楽しかったし、シーンが求めるテンポ、リズムとこの上なくシンクロした。
言い換えると、KANA-BOONは、誰よりも正しくロックの「楽しみ方」を知っていた、ということになる。
ただ。
かつて誰より早く楽しみ方を見つけたKANA-BOONは、今、誰よりも早く次にリアルを歌い始めた。
新曲”生きてゆく”は一人称的で、まるで谷口鮪がひとことひとこと大事なことを刻みつけるように書いた、そんな印象を与える曲だ。
この曲の中で彼はこう歌っている。
《僕らはなにかを失い生きてゆくと気づいたんだ》――。
なんだか切ない。
切なくてたまらない。
楽しくて、眩しくて、つまり青春的な瞬間であればあるほど、去りゆく刹那もまた残酷に訪れる。
シーンは移ろっていく。
谷口鮪も変わっていく。
僕たちだって変わっていく。
いつまでも楽しいままで、いつまでもキラキラしたままでいたいけれど――。
ちょっと切ないけどこれ現実なのよね。
僕が、谷口鮪が何かを「刻み付けるように」この曲を書いたんじゃないかと思ったのは、この歌詞を書いた彼の気分を想像せざるを得なかったからだ。
彼はきっと、この曲を「今言いたいこと」として書いたんじゃないと思う。
彼はきっと、この曲を「今言わないといけないこと」として書いたんじゃないかと、僕は思う。
ただし、それはきっと、次の季節においても、誰よりも早く新しい「楽しみ方」を見つけるために、だ。
大人になっていくシーンよりも早く、大人になろうと決めたKANA-BOON。
”生きてゆく”はそんなまっすぐな、「戦い」と「決心」の楽曲なんだと思う。
ここまで書いたことはあくまで僕の想像でしかないが、同時に、僕が”生きてゆく”をとても好きな理由でもある。
素晴らしい楽曲を、谷口鮪はまた書いてくれた。
これは完全版のPV。