現在発売中のJAPANで、メジャーデビュー直後即、ロングページ展開させてもらった。
ヒトリエはwowakaを中心に結成されたバンドである。
今シーンにバンバン登場してくるバンドの中でも、新世代を象徴する立場に成長していくバンドはそれぞれに明確なスタンスを持っている。
確信、というか、何かを強烈に信用している。
その確信が音の「強さ」となり、結果、絶対的に濃いコミュニケーションをライヴハウスに巻き起こしている。
たとえばKEYTALKのライヴの楽しさも、下山(GEZAN)・マヒトの美しさも要するに、何らかの「確信」に根差しているものであり、インスタントな快楽主義や単細胞な刹那主義に擦り寄ったものではまるでない。
言い換えれば、シーンを勝ち抜いていくバンドは、「音楽の何を信用し」「何に一点張りするのか」を圧倒的な速度で「選んで」いる、ということなのだと思う。
その意味では、確信というのは、「選択」の「スピード」のことだということになる。
選択のスピード感が図抜けているバンドの音には迷いがない。必然的にカッコいいロックになる。
ヒトリエはまさに「選んで」いるバンドである。
wowakaにとってはバンドという形態自体を、バンドにとってはビートを、ということになる。
ヒトリエの何がカッコいいのかというと、ビートが猛烈に苛立っているように聴こえることだ。
それは制作の中心であるwowakaの苛立ちであり、同時に、彼がバンドを選んだ必然でもある。
音と作り手の核がぴったりと完全に一致している。迷いがない。
wowakaはとても才能のあるミュージシャンであり、それゆえに、ヒトリエの音楽には常に重層的な構造が施されている。
少女をペルソナにしたフィクションの世界観はその象徴だ。非常にwowakaらしい、理性的な表現方法だと思う。
ただ、僕の耳には、ヒトリエの音楽は、性急なビートのエネルギーと、その鋭い切っ先をリスナーの中に押し込んだあとに爆発させるwowakaのフラストレーションで、まるで押し倒すようにして勝とうとしているように聴こえる。
のしかかられるような、ヤバい音楽に聴こえる。
僕がヒトリエを好きなのは、理性の向こう側にあるものが露わになっているからだ。その本性を隠そうともしていないからだ。
その苛立ったビートで戦うことを「選んで」いるからだ。
僕はその選択のスピードと確信のパワーを信用している。
長くなりました。
今発売中のJAPANではこういうことをガンガン訊いて、語ってもらってます。
来週発売になるこのミニアルバム『イマジナリー・モノフィクション』は素晴らしい作品である。
切れ味は極めて鋭い。