GREEN DAYが、おそらくロック史上最大規模で成功した
「パンク」バンドになることに異論はないだろう。
明日リリースされるニュー・アルバムが、
大復活を遂げた前作と同様の成功を収めるとなれば、なおさらだ。
それは、(それをそう呼ぶなら)NIRVANAの成功をも凌ぐことになる。
ところが、GREEN DAYが「正当なパンク」バンドであるかといえば、
諸説あるだろう。
けれどそれは、メジャー・デビュー作『ドゥーキー』の成功が、
当時のパンク・バンドの批判を浴びたという歴史を指すのではない。
むしろ、その「正当性」への疑いは、
GREEN DAYが、「パンク」のオリジネーターから、
ほとんどのものを「誤解」して受け取った、ということにある。
たとえば、ラモーンズがロックンロールをこれ以上ないほど削り上げて
パンクの原型を作ったとき、
彼らはその先に「普遍性」を見ていたわけではなかった。
たとえば、ピストルズが体制に対して挑発とツバを交互に吐いていたとき、
ジョニー・ロットンの視線の向こうに「あるべき社会」が見えていたわけではなかった。
そのように、「パンク」は決して大衆的でも、建設的でもなかったのである。それは無論、カート・コバーンにとってもそうだったのだ。
ところが、GREEN DAYはそうは受け取らなかった。
ラモーンズのようにシンプルでポップな音は、
万人がコブシを挙げるための音楽として最適なものであって、
ピストルズのように体制を罵り、闘いを挑む歌は、
来るべき明日のために今日の絶望と責務を物語っていくものだ、
彼らはそう「誤解」したのである。
そして彼ら3人はその「誤解」のまま、
誰にも真似のできない「大衆的で建設的なパンク」というものを
作り上げてしまった。
いま「パンク」と言われて想像する、そのようなイメージは、
GREEN DAYの誤変換から始まったのだ。
もちろん、その「誤解」は素晴らしい「誤解」であった。
それは、その後にロック・リスナーが示した
膨大な支持がなによりも証明している。
写真は、1994年のメジャー・デビュー作『ドゥーキー』。
この日本盤のライナーノーツを書いたのは、
まだ彼らがブレイクする前だったことを、
久しぶりに読み返して思い出した。