Suck a Stew Dry、「自分戦争」は続く


これ、もうみんな観てると思うけど、すごい曲だよ!


Suck a Stew Dry、9月3日リリースの1stフルアルバム『ジブンセンキ』から“僕らの自分戦争”。

4つ打ちのリズムと弾むようなメロディはどこまでもポップ。でもそこで歌われているテーマと言葉はどこまでもシリアスでヘヴィ。ここのところどんどんポップに開花していっているシノヤマコウセイの楽曲が、彼がずーっと抱えている世界観とがっちりはまった、まるで答えのような1曲だと思う。

それこそ最初のミニアルバム『人間遊び』から、シノヤマの書く歌詞に一貫して流れているのは、「自分は何者でもない」「自分は独りである」という前提だと思う。その「何者でもない」「独りである」状態から抜け出したいというわけでもなければ、必死になって未来を掴もうとしているわけでもない。ただ、そういう存在としての自分を、まるでひとりごとを呟くように歌ってきた。でも、その歌が少しずつ広がり、誰かに届き始め、それに呼応するようにSuck
a Stew Dryのサウンドはポップに開けていった。そして、そのサウンドに導かれるように、シノヤマ自身の内側でも、確かに何かが変わり始めた。

それが、この“僕らの自分戦争”、そして『ジブンセンキ』というアルバムだと思う。

8月30日発売のJAPANで、シノヤマへのインタヴューを掲載している。取材のとき、シノヤマはこの“僕らの自分戦争”について、「“二時二分”と言っていることはだいたい同じ」と言っていた。“二時二分”は『人間遊び』に入っている曲だ。

確かにテーマは通じるものがある。でも、僕は全然違うと思う。

アイデンティティの争奪戦
結局誰もがフォロワーで
誰でもない自己を求めて
もがき続ける

という“二時二分”に流れるニヒリズムが、

僕らの自分戦争 このまま続けよう
信じなきゃ!ってほどではないんだけど
いつか見つけられるといいなあ

と歌う“僕らの自分戦争”にはない。
「誰もがフォロワーだ」という認識は変わっていないけど、今のシノヤマの歌にはそれを超えていく強さ、超えるために闘い続ける強さがある。