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    マイケルとバブルスの思い出

    マイケルとバブルスの思い出

    マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」が公開され話題になっている中、とても個人的な話ですみません。

    週末、都内にある実家に久し振りに寄った際、母親から大昔のスポーツ紙の切り抜きを見せられた。

    22年前、1987年9月30日のものである。
    当時、僕は22歳。大学を卒業してキョードー東京というコンサートプロモーターに就職し半年、という状況だった。
    その年は、6月にマドンナが初来日して後楽園球場でライブを行ったが、突然の台風の為、初日が中止。ワールドツアーのスケジュールの関係で振り替え公演も出来ず、会場は暴動になりかけた。入社直後のショッキングな出来事だった。
    そして9月、今度はマイケル・ジャクソンの初来日ライブが同じく後楽園球場で行われる。
    邦楽セクションに配属されていた僕だったが、これらの特殊物件は全社体制で臨む事になる。
    マイケル来日の十日前、全社員が会議室に召集され、当時の興行部長よりマイケル現場用社内シフトの発表がなされた。
    かつてツェッペリンやグランド・ファンクも担当してきたエースのロードマネージャーがマイケル本人の担当。当然、誰もが納得。
    20代ながらバリバリ頭角を現してきていたLA生まれの帰国子女Bさんの担当はバックミュージシャン。これも順当。そして、ダンサーの担当、プロダクションスタッフの担当、ステージクルーの担当、ワールドツアーのスポンサーだったペプシの担当、などなど次々と振り分けられた。
    そして最後、名前を呼ばれていないのは新人の僕だけ。
    「えー、そしてー最後にかいづ、かいづはー、バブルス。バブルスの担当。」
    会議室のみんな、クスクスと笑っていた。知ってますか?バブルス。当時マイケル・ジャクソンが溺愛してワールドツアーに同行させていたというチンパンジー。
    「まじ!っですか…。俺、サルかあ。」
    出来る事なら人間を担当したかった。もとより動物が苦手でもある。けれど、僕は新入社員。気を取り直して頑張ろうと思った。
    翌日出来上がってきた四週間の行程表には、いちばん右端に「バブルス」という欄があった。
    厳密にいうと、バブルス、その調教師夫婦、その通訳、僕。以上アメリカ人二人と日本人二人と一匹という一行メンバーでツアーが始まった。始まったのだが…、すぐに状況は一変する。
    バブルスは人気者だった。どこへ行っても注目の的だった。マイケル本人との接点が深かったので当然といえば当然なのだが、連日、テレビやスポーツ新聞に追いかけられる。これは新入社員に任せる仕事ではなかった、と会社が気付いた時は遅かった。会社にかかってくる僕宛の電話も日増しに増えていった。
    この時に知り合ったテレビ関係者やスポーツ紙の記者の中にはいまだに交流の深い人も居る。

    最初は恐る恐るだった僕とバブルスとの関係も徐々にに変わっていった。毎朝、会社の近くの紀伊国屋で台湾産バナナを買って、キャピトル東急の地下にあるバブルスの宿泊スペースに運ぶのが日課。十日目が過ぎたあたりから、バナナを投げずに、持っている僕のもとに飛び込んでくるバブルスを抱きかかえながら食べさせる事も出来る様になった。そして紀伊国屋でバブルスが喜びそうなバナナを選ぶ事も出来る様になったのだから大した進歩である。

    ただ別れの日は唐突にやってきた。バブルスを使って予定されていた日本国内のスポンサーによるCM撮影がいくつかの事情によりキャンセルになった為、彼は突然帰国する事になった。まだ全日程の半分消化くらいの時期だったと思う。僕ら一行のコストがかかり過ぎる為に、このまま置いておくのは非効率だ、というマイケルのマネージャーが下した決断だった。
    最後の日も紀伊国屋でバナナを買ってキャピトル東急でピックアップし、僕の運転するハイエースで成田に向かった。やっぱりテレビも新聞も追いかけてきた。
    そしてイミグレーションの手前で撮られた別れの瞬間が、翌日のスポーツ紙に出たこの写真。 完全に情が移っていた僕はちょっとだけ涙ぐんでいた。

    僕の母親はいろいろなマイケル報道を見る度に、この新聞記事を思い出していたのだと言う。
    社会人一年目の強烈な思い出。
    (海津亮)
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