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    デヴィッド・ボウイはなぜ仏教の火葬をして欲しいと望んだのか?

    デヴィッド・ボウイはなぜ仏教の火葬をして欲しいと望んだのか?

    お前はまだデヴィッド・ボウイの死を引きずっているのか、と言われるのかもしれないが、
    うん、いや、引きずっていると言うよりも書き忘れていたことがあったので書いておきたい。
     それは何かというと、ボウイが亡くなる前に
    「遺体はバリ島に搬送し、仏教の儀式にのっとって火葬してほしい」
    と遺言していたことについてだ。
     
    日本では火葬は99%を超えるが、ヨーロッパやアメリカではもちろんそんなことはない。
    キリスト教では死者の復活が信じられているから、土葬が主流だ。
    しかも「仏教の儀式にのっとった」火葬の希望を遺言に残す西洋人は非常に少数派であろう。
    ボウイはそれを望んだ。
    もちろんボウイが若い頃からチベット仏教に興味を持っていたということも周知の事実だし、
    そもそも60年代・70年代のロック・ミュージシャンは一度は東洋思想や仏教にかぶれるのがセオリーだった。
    でも、実際に老人になってから「仏教の儀式で火葬にしてくれ」というヨーロッパやアメリカのアーティストはやはりほぼきいたことがない。 


    僕はこのことをニュース配信で知った時、ハッとした。
     


    長い間僕はボウイの音楽を聴いたりボウイについて語ったりしてきたが、その時にいつも感じてきた
    「他のアーティストと何かが違う」
    というその答えの一つがわかった気がしたからだ。

    キリスト教的世界観と反キリスト教的世界観という二元論の反発力を利用してエネルギーを生む「ロック」の基本原理とはまったく違う原理がボウイの音楽にはあるとずっと感じてきた。
    ボウイのロックは正義を熱唱するロックとも違うし、そこから逸脱するアウトローのロックでもなかった。
    では何なのか?
    その答え……とは言わないがヒントがこの遺言にはっきりと示されたように思えた。



    「アッシェズ・トゥ・アッシェズ」を聴くたびに、「クイックサンド」を聴くたびに、
    いや「ヒーローズ」を聴く時でさえ感じるボウイ独特の「無常観」。
    欲望や衝動を肯定するのでも否定するのでもなく「無化」・「浄化」するような曲調・音色・歌詞。
    それは仏教的な生のあり方に深く根ざしていたのではないだろうか。


    本当はもっと緻密な論考を重ねた上でじっくり腰を据えて書かなければならないテーマだとは思う。
    だからこれは「メモ」のようなものとして、ブログであることに免じて許して読んでいただければと思う。
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