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    『ブラックパンサー』を観た

    『ブラックパンサー』を観た
    これを言うと「え?」って言われるんだけど、僕はこの映画を観ていて終盤に進むにつれて涙が止まらなくなってしまった。
    普段は映画を観て泣くことはほぼ皆無だが、これは泣いてしまった。
    「ブラックパンサー」観てそこまで泣くって、頭おかしいんじゃねえ?と言われるのも至極当然ではあるのですが、まあ少しその理由を書かせてください。

    『ブラックパンサー』は、ヒーロー物であり、王の成長物語でもあり、アフリカ/黒人の歴史を踏まえた政治/経済の現状に対する批評でもあり、言うまでもなく60年代の黒人の人権運動の組織「ブラックパンサー党」からのインスパイアも重ねられている。ちょびっと恋愛物でもあるし、スパイ映画でもある。
    そんなさまざまな要素がミクスチャーされていて、それぞれの物語や価値観が交差しながら巧みに辻褄をあわせながら進んでいく実によくできたプロットだ。
    いろんな観方ができるし、いろんな解釈と楽しみ方ができる。
    それだけでも、各方面から大絶賛されるのは十分理解できる。

    でも僕の涙腺を決壊させたのはそれらの事柄ではなくて、この映画が、しかもマーベルの大商業映画が、最初から最後まで徹頭徹尾「アフリカ、黒人、女性」を「強いもの、優れたもの」として「あたり前の大前提として」設定したこと、だった。
    こんなことは初めてだ。

    『ブラックパンサー』においては、アフリカ(のワカンダ王国)は当たり前のように(西欧諸国よりも)すべてにおいて豊かで高水準で圧倒的に美しい国として描かれている。
    『ブラックパンサー』においては、白人のキャラクターは当たり前のように(黒人よりも)マヌケで愚かな人間として描かれている(CIAのロスは後半で株を上げるが)。
    『ブラックパンサー』においては、女性の登場人物は当たり前のように(男性よりも)精神的にも肉体的にも強く、賢く描かれている。

    この「当たり前のように」というところがあまりにも画期的すぎて、ストーリーの運びに関係なくずっと感動が止まらなかった。

    これまでの映画においては、「当たり前のように」白人がかっこよくて、男性が強く賢くて、アフリカは西洋よりも貧しく劣っていたのだ。
    アフリカや黒人や女性を礼賛した映画はもちろんたくさんあるが、「当たり前の大前提として」そう設定されたメジャーな商業映画などありはしなかったのだ。

    そして、それが荒唐無稽な夢物語のファンタジーではなく、「こっちがリアルではないのか?」と突きつけているところも感動的だった。(エンドロール後のシーンはそのリアリティーを主張している)。


    今のポップ・ミュージック・シーンを見れば明白じゃないか。
    黒人、女性、アフリカ(的なる音楽)が、十数年前に比べれば圧倒的に優位に立ち、白人・西欧(的なる音楽)を凌駕している。

    『ブラックパンサー』は僕にとってはリアルだった。だから涙が止まらなかった。(山崎洋一郎)
    山崎洋一郎の「総編集長日記」の最新記事
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