僕らはテレビに戻れるのか?

僕らはテレビに戻れるのか?
最近はNETFLIXとかで映画かドキュメンタリーかドラマばっかり観てる、という話をよく聞きますが、僕も最近はずっとそうで、通勤中も食事中も入浴中もずっと観ています。
とにかく楽しい。
これまでテレビでドラマにはまったこともないし、しょっちゅう映画館に行くこともこれまでの人生でなかったし、とにかく時間があれば音楽ばっかり聴いてきたバカなので、新鮮でたまらない。

で、そんな生活をかれこれ数週間送ってて、ふと久しぶりにテレビをつけてしばらく観ていたらあることに気づいたのです。

テレビに出てる人たち、やたら笑っている。

とにかくひっきりなしに誰も彼もが笑っていて、音声にもわははは、ぎゃはははと笑い声が絶えない。
これって何? 以前はそれが当たり前だと思っていたけど、いきなり違和感を感じる自分がいた。

で、ネットのコンテンツに戻ると、出てる人、やってる人があんまり笑っていない。

それは映画やドラマやドキュメンタリーに限らず、例えばユーチューバーのコンテンツですら、やってる人はそれほどぎゃはははと笑いながらやってるわけではなくて意外と淡々とやってるのが多かったりする。

いまさら当たり前だけど、テレビとネットではグルーヴがぜんぜん違うのである。

その違いを認識した上でテレビを観ていると、
「テレビって、お正月の親戚の集まりだとか、あるいは学校の同窓会だとか、会社の忘年会とか、いわゆる人々が集まる《場》なのだな、しかも不自然な形での」
ということがわかってきた。

そういう場面において、人はとりあえず笑う。
笑顔をふりまき、大して面白くない話でもとりあえず笑っておく。

それと同じで、笑顔と笑い声がデフォルト設定されている《場》、それがテレビの基本なのである。

もともとテレビは人と人とが擬似的に出会い、人と人とが擬似的に集まるためのメディアだった、だから昔はテレビを「観ている側」においても、テレビの前で家族や兄弟は会ったり集まったりしていたのだ。
コミュニケーションツールだったんだな。
そういうことがあらためてわかってきた。

NETFLIXで映画やドラマを観るとき、僕たちはコミュニケーションなんか求めない。
ただ作品を観たいだけである。
だからこちらに笑顔を振りまいてもらわなくてもいいし、にぎやかなガヤもいらないし、楽しそうな空気感とかもいらない。
ただその作品と向き合いたいだけだ。

観ている側も、テレビを観てるとついやってしまいがちなリアクションとしての笑いとか、ツッコミとか、ディスとかしないし、しなくていい。
《場》に参加しなくていい。不自然な会に出席しなくていい。
それがすごくしっくりくる。楽しい。

まったく同じ番組でも、テレビで観るのとNETFLIXで観るのとはぜんぜん意味が違うし快楽が違うのだ。

CDで音楽を聴くのとYou Tubeで音楽を聴くのも意味や快楽が違うし、電話で話すのとチャットで会話するのも意味や快楽が違う。

これからはお金を払うのもネットになるし、政治や学校や仕事もネットになっていくだろう。
それはただ便利になるだけではなくて「意味」や「快楽」が根本的に変わるということなのだ。

たとえばスマホ決済の何がいいって、ポイント還元とかそういうオマケじゃなくて「あの意味不明の紙切れや丸い金属片(お金)やそれを入れるための袋(財布)を持ち歩いては出したり入れたり数えたりする風習から6千年ぶりに(貨幣の起源は紀元前4千年以上前らしい)ようやく解放される」という意味と快感だ。

そういうことをしっかり見極めながらこのIT化社会を生きるのは今のところ楽しい。(山崎洋一郎)


ロッキング・オンJAPAN最新号コラム「激刊!山崎」より
山崎洋一郎の「総編集長日記」の最新記事
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