ボブ・ディラン、1963年のケネディ暗殺を17分もの叙事詩に歌い上げ、自身のルーツと重ね合わせながらアメリカを揺るがせた「不可解さと恐ろしさ」を解き明かす。ただひたすら凄い!
2020.04.04 11:00
本来なら、ノーベル賞受賞後初となる待望の単独来日公演で盛大に盛り上がっていたはずのボブ・ディラン。コロナウイルス感染拡大のため中止になってしまったが、先月末にボブは緊急で新曲"Murder Most Foul"をリリースした。
リリースにあたってのメッセージが、ツイッターで発表された。
彼は「ファンとフォロワーのみなさんのこれまでのたくさんの応援と献身への感謝をお伝えします。これはぼくたちがしばらく前にレコーディングした未発表の曲でみなさんのお気に召すかもしれません。安全にして、よく周りを見極めてお過ごしください。主のご加護がみなさんとともにありますようお祈りいたします。ボブ・ディラン」と伝えている。
明らかに、ツアーの中止を含めて、何かにつけて楽しみや感動することまでも制限されてしまった世界中のファンへのボブからの贈り物なのだ。
では、これがどういう曲なのかというと17分近い大作で、その間、ボブはひたすら1963年11月22日にテキサス州ダラスでパレード中に銃撃により暗殺されたジョン・F・ケネディの死について、その思いを綴るものになっている。
ただ、その思いとはケネディの大統領としての資質や人柄についてのものではまるでなく、ひたすらにその死についての心象のみ語るものとなっている。
沿道に詰めかけた大勢の人々が、ケネディ大統領夫妻とテキサス州知事夫妻が同乗した車のパレードを目撃している最中で、誰にも察知されることなく、ケネディがその頭部を狙撃され、脳味噌の断片の数々がその場に撒き散らされることになったという、この惨劇に関わるおびただしい記憶と思いがひたすらに綴られるものになっている。
この事件がここまで今も人を震撼させるのは、まさにその惨たらしさゆえのことだということを冷徹に歌い綴るところが、まさにボブのボブたるゆえんだ。
「しばらく前に」レコーディングされた音源だとボブは断っているが、演奏はほぼ今現在のバンドを思わせる質感と情感に溢れたものだ。バンドの演奏は、ボブの節回しに厚みを加えるだけの役割に徹していて、ピアノとバイオリンとベースなどが微妙に抑揚をボブのボーカルに加味していくものになっている。
それは一見してわかりやすいような展開があるわけではなく、最初から最後までただひたすらにこのボブの節回しと伴奏がたゆたうだけで、アンチ・クライマックス的なものともいえるかもしれない。
しかし、このボブの歌の内容そのものが、どこまでもドラマティックなものなのだ。
たとえば、ケネディの暗殺については立証されてはいないが陰謀だったことが確実視されていて、関与した勢力としてはFBI、CIA、ジョンソン副大統領、国防省、産軍複合体、マフィア、労働組合など、さまざまなものがこれまで挙げられている。
しかし、むしろこうした勢力がどれもすべて複雑に絡み合った結果として持ち上がった陰謀がケネディの暗殺なのだという見方に光を当てているのが、マーティン・スコセッシ監督が昨年公開した傑作映画『アイリッシュマン』のモチーフのひとつだ。
そんな『アイリッシュマン』と同様に、ケネディ暗殺については、複雑な陰謀の絡み合いとおびただしい数の思惑の「ひだ」が、ひとつの総体となった悪意へと集積していったのだという思いを、とぎれとぎれの心象とともに歌い上げていくところがこのボブの歌の凄味だ。
ある損得勘定が無数の損得勘定を蠢かしていくことによって、最終的に大統領の脳味噌を衆目環境の最中で撒き散らしてみせるという惨劇を生み出していったことが歌われていて、それがこの曲のタイトル、“Murder Most Foul”、つまり、「極まれるほどに汚らわしい人殺し」の意味するところなのだ。
なお、この文句はシェークスピアの『ハムレット』からの引用で、国王の謎の死が欲得にまみれた陰謀によるものだったことを糾弾する国王の亡霊が発するフレーズでもある。
さらに、このケネディの暗殺が60年代という時代の事件でもあったため、ユース・カルチャーに甚大な影響を及ぼしたことを巧みに紡いでいるところが、またこの曲におけるボブの圧巻なところだ。
中盤からザ・ビートルズ、ザ・フーなどを自在にこのようなテーマの歌詞に放り込んできて、60年代という時代の空気をかもしだしていくところはもはや達人の業としかいいようがない。
さらに終盤に進めば進むほど、歌詞での言及は自身の血と肉となったルーツ・ミュージックやスタンダードなどが触れられることになっていく。つまり、ボブのもの思いと語りはボブ自身の原点へと行き着いていく展開となっているのだ。
それはこの63年という年がボブにとって『The Freewheelin' Bob Dylan』や『The Times They Are a-Changin'』で自身のキャリアの基盤を打ち建てた年でもあったからだ。これらのアルバムで、ボブはほかには類を見ない鋭さと辛辣さで時代や社会を糾弾してみせていた。
しかし、それから半世紀以上経って、この曲によって運命的な年を再訪したボブは、当時ではおそらく作品化できなかったであろう、この事件の底知れない悪意と衝撃を自ら紐解いてみせているのだ。
もちろん、当時わからなかったことを、今のボブもぼくたちも無尽蔵に知っている。
しかし、おそらく当時の自身も抱え込んだような、形容しがたい不可解さと恐ろしさの輪郭と正体をボブはこの曲で明らかにしてみせているのであって、それはこれほどの表現者であって初めて成しうる業なのだと思えてならない。
そんな凄味を、悠久とさえいえる佇まいを持つこの曲は、鮮烈に伝えてくれているのだ。(高見 展)