シガー・ロス @ 東京国際フォーラム
2017.08.01
シガー・ロスの今回の単独来日は、昨年のフジ・ロックからジャスト1年で迎えたツアーだ。その間に新作のリリースはなかったし、キャータンの脱退によって3ピースとなった彼らの新フォーメーションも、すでに昨年のフジで披露されていたものだ。それにも拘らず、東京国際フォーラム公演2日目の彼らのステージを観て感じたのは昨年からの大きな変化だった。
キャータンの脱退で生じた隙間や欠落をフリー・スペースとしてざっくり活用していたのが昨年のフジだったとしたら(そしてその大らかさが野外の環境にマッチしていた)、国際フォーラムでの彼らは3人編成を大前提として、がっちり噛み合い、これ以上一切の足し引きの余地がないコア・フォームとして、恐ろしくソリッドで濃密なパフォーマンスを繰り広げていたのだ。
まだ大阪公演が続くので、ネタバレを回避したい方は以降のレポートは公演後にお読みいただければと思う。
昨年9月に北米を皮切りにスタートしたシガー・ロスの最新ツアーは、途中休憩を挟む2部構成が基本となっている。“A”で幕を開ける1部は、チラチラと黄金の光が舞い散るスクリーンと同期するように鐘の音がサラウンドで走り、たっぷりとられたリヴァーヴと絡み合っていく“Ekki Múkk”や、端正なメロディと牧歌的音響から爆音で打ち付けられてくるノイズへのドラマティックな落差で圧倒する“Glósóli”、重くもたつくドラムスを引き剥がし、陰鬱なムードを振り払うような弓弾きギターのロック的カタルシスに痺れる“E-Bow”や“Dauðalagið”にしろ、全編にわたって大波のような抑揚を感じさせるセクションだった。たった3人で編み出しているとは俄には信じがたいほどの圧倒的な情報量とイマジネーションの喚起力が、最大の効果を発揮するタイミングを、シビアに見極めながら放出されていく。
毎回素晴らしい照明を見せてくれるシガー・ロスだが、今回の照明は極力ナラティヴな具体性を廃し、光と色とかたち、そしてそれらの配置で視覚にダイレクトに訴えかけていく演出だ。荒野の凍てつく空気を切り裂くような鋭い白銀のライティングが遥か遠い未知の世界を彷彿させる一方で、温かなオレンジの光を放つライトが室内楽的な親密さを感じさせる。
人知の及ばない過酷で壮大な「外」と、人間の「内」の奥底に潜む未知の領域、そのふたつが実は繋がり循環していることを、シガー・ロスの「どこまでも非日常なのに、何故か心身に馴染む」音楽はしばしば証明してみせるが、照明の演出も含めて1部のパフォーマンスはまさにそれを饒舌に伝えるものだった。
対する2部は、ステージ上に設置された柵によって隔てられた「向こう側」で彼らがプレイする“Óveður”でスタートした。これは昨年のフジのオープニングと同じ演出だ。そして続く“Sæglópur”の序章部分をピアノとグロッケンシュピールが導くチェンバーなアレンジで終えたところで、3人が柵を出て「こちら側」に移動、そして一気に轟音がバーストする。
“Ný Batterí”や“Festival”といったシガー・ロス流のアンセム(?)、メジャー曲が集中的にプレイされるフレンドリーな流れだったことも大きいだろうが、1部が抑揚のセクションだったとしたら、この2部は急転直下でクライマックスに達する、過剰なほどカタルシスティックなセクションだった。上半身を大きくグラインドさせ、全体重を足先に集めるようなオーリーのバスドラのキックは躊躇なく流れを分断し、鋼の硬度となめし革のしなやかさを奇跡的に両立させたゲオルグのベース・ラインは、その分断された流れを力技でがっつり再び束ねていく。キャータンのキーボードが潤滑油の役割を果たしていたかつてのステージとは異なり、今の3人のアンサンブルはどこまでもタイトで、どこまでも熾烈だ。
“Festival”ではヨンシーの歌声が途切れ、1分近い無音が続くシーンがあったが、息を吐くのも躊躇われるほどの完全な沈黙に包まれた国際フォーラムのあの異様な緊張感と、そこから一気にシンフォニックな展開へと雪崩れ込んでいった異様な昂揚感、多かれ少なかれその両極に近い状態がほぼずっと継続していたのが2部だ。
バックライトの激しい点滅で恍惚とさせられた“Ný Batterí”はもちろんのこと、無数の星屑のような光の粒子が漆黒に眩しく舞い、国際フォーラムがプラネタリウムと化した圧巻のライティングも含めて、記憶に深く濃く焼き付けられ2時間20分だった。(粉川しの)
〈SETLIST1〉
Á
Ekki Múkk
Glósóli
E-Bow
Dauðalagið
Fljótavík
Niður
Varða
〈SETLIST2〉
Óveður
Sæglópur
Ný Batterí
Vaka
Festival
Kveikur
Popplagið