最初に登場した小谷美紗子trioは、小谷美紗子のピアノが左、玉田豊夢(100s)のドラムが右、山口寛雄(100s)のベースは中央という配置。そのシンプルな編成で、クラシック、ジャズ、ブルース、ロック、その全てであるかのような多彩な楽曲を披露していく。印象的だったのは、主旋律を奏でる小谷のピアノと、グルーヴを生む玉田のドラムが互いに呼応しあって、音を加速度的に増幅させてゆく瞬間が何度もあったことだ。山口のベースは、対面でプレイする二人の熱量をクールに冷ますように、終始バンドアンサンブルの舵取り役に徹していた。
「Peopleの皆さんに呼んでいただいて、新しい下北のGARDENで、今日、ライブができて幸せです。自分よりも下のバンドに誘われることが多くなってきて、とても励みになります。ありがとう」とMCの後、ライブはフィナーレへ。ドラムソロ、それにピアノが加わり、ジャズ・セッションのような展開から、ラストの“消えろ”へ移っていく。小谷美紗子の声はどこまでもしなやかに力強く響き、ライブが終わった後も、躍動的なグルーヴの余韻は、しばらく空間いっぱいに残っていた。
そして、People In The Boxの3人がステージに登場。ドラムが秒針のようにわずかな音を刻み、ベースの一音がリバースし続ける中、「馬に乗っている 首の曲がった馬に乗っている」という一節から、波多野裕文(Vo/G)のポエトリー・リーディングが始まる。儀式的とも言えるこの瞬間は、秘密めいた地下集会に参加しているかのよう。その閉じられた世界は、けたたましいドラミングと、軽やかなギターの単音が重なっていくオープニング曲“サイレン”によって目を覚ます。
聴くたびに感じることだけど、とにかくこのバンドは、ビートの引き出しがいくつもある。引き出しには、少々いびつなリズムばかりが詰まっていて、そこから取り出した変拍子や三拍子でトリッキーに曲展開を変えていく。ある種のノリにくさというのは、本人達も自覚しているようで、「ピープルの曲はノリづらいという風の噂がある」とMCで波多野は語っていた。だから、この曲って最初どんなリズムだったっけ、みたいに、自分の今いる空間が楽曲のどのあたりなのかうまくつかめない瞬間は確かにある。けれど、そんな瞬間も霞んでしまうのは、最終的な楽曲の到達点が、鬱蒼とした感情を放つ波多野のノスタルジックな詩世界のはかなさと、 歌とギターとベースとドラムによって鳴らされる音楽が本来持つ、純粋な美しさへと昇華されているからなのだろう。
ただ、People In The Boxのもう1つの特異性というのは、いびつなリズムが幾何学的に重ねられたサウンドの難しさに輪をかけていく、感情を捻じ曲げたような波多野の言語にある。彼の言葉は、わざと矛盾を孕ませたり、わかりにくくぼかされていたり、おおよそすっと入ってくるタイプの歌詞ではない。演奏もすさまじいクオリティだけど、ポピュラリティに溢れたものとは言いがたい。むしろかなりゴツゴツした感じだ。それらが1つの楽曲に混在するということは、当然ある種の矛盾や居心地の悪さがでてくる。しかし、最初はそれに戸惑っても、ずっと音に集中している内に、不思議と毒をゆっくり刷り込まれ、それがぐっと体内に入り込んでいくような感覚に陥るのだ。「中毒性」とか「スルメ的に」といった表現が、楽曲に対してされることが時々あるが、まさにこれがそうなのだと思う。
そして何より驚いたのは、彼らの演奏者としての確かさだった。この下北沢GARDENのような、ステージとフロアの距離が異様に近い場所だとそれがよくわかる。特にGARDENの音は、オープンしたばかりとは思えないほど掛け値なしに素晴らしかった。波多野の声も、1つ1つの言葉や発音がくっきり聞こえるし、サウンドもクリアに響く。ただそれは、バンドにとってかえってごまかしやぼかしが一切きかなくということでもある。だが、彼らの今日の演奏は完璧だった。しかもきっと譜面に起こしたら気が狂いそうになるくらい高度な演奏なのに。“泥の中の生活”のラストでも、波多野はギターを倒れこみながらかき鳴らし、放り出し、コードを体中に巻きつけてのたうちまわるが、ギターの音は“ノイズ”というぼかした表現にはならず、きちんと楽曲というくくりに収まっていた。
セットリストは過去に出した3枚の音源からまんべんなくセレクトされた計16曲。ラストの“完璧な庭”まで、オーディエンスは終始ステージに意識を集中させ、1曲が終わるたびに拍手することを躊躇しているかのように見えた。オーディエンスは、彼らの作り出す、精巧で触ったらくずれてしまいそうな静寂に満ちた空間を壊したくないのだろう。あるいは、その空間にずっと浸り続けていたいのだろう。(古川純基)