【コラム】Dragon Ash、希望を歌う“光りの街”で示した新たな「闘いの形」とは?
2016.11.09 18:30
Dragon Ashは「ロックで闘い続けてきたバンド」である、ということに関しては誰もが認めるところだろう。しかし、その「闘い」の意味は、これまでのバンド史の中でも幾度も変化を遂げてきた。
ロックシーン最前線へ飛び出すために己の衝動をフルブーストさせてきたデビュー初期。200万枚近いセールスを記録した『Viva La Revolution』に象徴される、日本のロック丸ごと新次元へと導くための闘い。カオスと化した00年代シーンにミクスチャーバンドのアイデンティティを轟々と撃ち上げる闘い。そして、IKÜZÖNEとの別れを経て、己の全存在を『THE FACES』というアルバムに注ぎ込む渾身の闘い――。
だが、『THE FACES』から約2年10ヶ月ぶりの新作音源となるニューシングル『光りの街』の歌とサウンドから浮かび上がる「闘い」の形は、これまでのどのモードとも異なるものだ。そしてその差異は、彼らは今作で「誰のために」闘っているのか?という点に起因するものだ。
今年4月から“Headbang”“Circle”というソリッドな新曲2曲を携えて回ったツアー「The Lives」中、現編成では最小キャパシティとなるライブハウス(約200人)=石巻BLUE RESISTANCEでライブを行ったDragon Ash。
「東北ライブハウス大作戦」をはじめ震災復興支援に積極的に取り組んでいる彼らが、被災地支援のステッカー&ピンバッジの売上を全額寄付した石巻市内の児童公園「スマイルパーク」で見た子供たちの笑顔が、まさに今回のシングル曲“光りの街”のモチーフとなっている。
《やり方も知らず 子供に生まれて
望む事はそう 喜びだけで
有り余るこの 痛みの先へ
幸へ走れ 光りの街で
明日を望む》
(“光りの街”)
ライブバンドとしての野生の証明的な重轟音ナンバー“Headbang”とは対照的に、“光りの街”でのKjの歌からは、対シーン/対時代/対社会といった「ロックバンドとしての闘い」といった視点は綺麗に抜け落ちている。
そこにあるのは、困難な状況の中でも懸命に希望を指し示し、誰もが前へ一歩踏み出せる熱量とロマンをメロディに刻み込もうとする意志そのものだ。タフな音像とともに未来への全身全霊の祈りを捧げる「生きるための闘い」の歌、と言い換えてもいい。
「Dragon Ashは闘ってなきゃダメだから。『ランボー』みたいなもので」―― 昨年、降谷建志名義でのソロ作インタビューの際、Kjが自らのバンドの在り方をそんな客観的な言葉で語ってくれたのが印象的だった。
Dragon Ashのフロントマンとして表現することの責任感の重さも、ソロアーティストとして自分自身を開放することの充実感もフラットに見つめた上で、Kjは“光りの街”でまったく新しい、根源的な「闘い」の形を歌い上げてみせた。そのことに今、改めて胸が熱くなる。(高橋智樹)