パティ・スミス、盟友にして元パートナーの劇作家サム・シェパードを偲ぶ

パティ・スミス、盟友にして元パートナーの劇作家サム・シェパードを偲ぶ

7月27日に73年の生涯を終えた劇作家のサム・シェパードとの思い出を、パティ・スミスが米「ニューヨーカー」誌に寄せている。

サム・シェパードはミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘』(1970)、あるいはヴィム・ヴェンダーズの『パリ、テキサス』(1984)の脚本、また自身の戯曲『フール・フォア・ラブ』や1985年のその映画版などでもよく知られており、『ライトスタッフ』(1983)やリドリー・スコット監督の『ブラックホーク・ダウン』(2001)等への出演など、俳優としても活躍していた。

サムは60年代からニューヨークの演劇シーンで活動を続けており、その後60年代後半からニューヨークで詩のパフォーマンスを始めるようになったパティ・スミスと出会う。ふたりで戯曲『Cowboy Mouth』を制作する一方、パートナーとしての関係も始めている。

プライべートな関係が解消された後もサムとパティは交流を続け、そんなサムとの関係をパティは次のように回想している。

「サムは旅の途上でよく夜に電話をかけてきたものだった。テキサスのゴーストタウンからということもあれば、ピッツバーグ近辺の長距離バスの休憩所からかけてくることもあったし、サンタフェの沙漠で車を泊めてコヨーテの遠吠えを聞きながらかけてくることもあった。でも、一番多かったのはケンタッキーの自宅からで、そんな時は決まって寒い、静かな夜で、星の息遣いまで聞こえてきそうな夜だった。

青天の霹靂のような突然の電話で、イヴ・クラインのキャンバスの青の色のように驚かされ、その中で自分を忘れ、どこへでも行けるように思わせられたものだった。わたしは喜んで目を覚ましてネスカフェを淹れてなんについてでも話したものだった。それはコルテスが奪取したエメラルドについてであったり、ベルギーのフランドルにある第一次世界大戦時のアメリカ軍兵士戦没墓地について、あるいは自分たちの子供のことやケンタッキー・ダービーの歴史についてだったりした。でも、たいていは作家や作品について話すことが多かった。南アメリカの作家。ルディ・ワーリッツァー。ナボコフ。ブルーノ・シュルツなどと」

パティはサムが常に移動を好んで行っていて、役者としての役柄も自分が個人的に望まないような人物を好んでいたと振り返っていて、それも将来的な自分の仕事の糧としてやっていたことだったと綴っている。

また、2012年にアイルランドのトリニティ大学から名誉博士号を授与された時には、サミュエル・ベケットの出身校だったため、劇作家として格別に喜んでいたことを回想している。その頃から体調も思わしくなくなり、パティ自身がサムの自宅を訪れるようになり、サムの最後の原稿となった執筆の手助けをすることになったことを明かしている。そして「わたしたちはいい意味でも悪い意味でも友人で、生身の自分たち自身として付き合っていた」と自分たちの関係について説明している。

最後の原稿を仕上げてサムの自宅を後にした時、サムはプルーストを読んでいたとパティは振り返っているが、さらに原稿を仕上げる時のサムの様子と手について次のように綴っている。

「最後の原稿と取り組みながら、サムは果敢に自身の精神的スタミナを奮い起こし、運命が自分に下したさまざまな課題(サムはALS:筋萎縮性側索硬化症に冒されていた)と取り組んでいった。親指と人差し指の間に三日月がタトゥーとして彫られてあったサムの手は、目の前のテーブルの上に休ませてあった。そのタトゥーはわたしたちが若かった頃のお土産のようなもので、わたしのは稲妻の柄で左の膝に彫られてある」

サムの訃報をパティが知ったのはスイスのルツェルンのことで、パティは「わたしは暗い夜に三日月が輝く中、フランスとの国境に向かった。それから夜の静けさの中で、自分の盟友へのさようならを口にして、彼に呼びかけた」と文章を締め括っている。
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