リアム・ギャラガーとノエル・ギャラガーが揃って新作リリースを迎えた2017年の下半期。
ふたりのかつての古巣、クリエイション・レコーズのエピソードを、創業者のアラン・マッギーや在籍アーティストらの発言と共に振り返っていきたい。
クリエイション・レコーズはアラン・マッギーとそのバンド仲間だったディック・グリーン、ジョー・フォスターの3人で1983年に設立されたインディ・レーベルだが、「NME」によるとアラン・マッギーはレーベル設立の動機について以下のように語っていたという。
別にものすごい音楽ファンとしてレーベルをやったわけじゃないんだよ。ちゃんとした仕事に就きたくなかっただけなんだ。たとえば、俺はうちの親父のことは大好きだけど、じゃあ親父みたいになりたいのかっていうとそうじゃなかった。
親父は自動車整備工場の板金工で、日がなハンマーで板金加工してたんでね。そういう環境にはいたくなかったんだ。
ジーザス&メリー・チェインやプライマル・スクリーム、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインをはじめ、スーパー・ファーリー・アニマルズ、ティーンエイジ・ファンクラブ、ライド、スロウダイヴと名だたるバンドが在籍していたクリエイション・レコーズだが、その歴史において最も有名なのは、アラン・マッギーがオアシスを発掘したということだろう。
オアシスを発掘した時にはクリエイションのバンド、18ホイーラーのライブを観にスコットランドのグラスゴーにまで出向いていたというアランだが、その前座として演奏したオアシスをいたく気に入り、その場で契約を申し出たという逸話はいまや伝説と化した有名なエピソードだ。
しかし、そもそも18ホイーラーのライブに行っていたわけではなかったという噂があることもまた事実だ。「NME」によると、アランはこの噂に対し「ガセネタ摑まされてんじゃねーよ! あの場にいたに決まってんだろ!ノエル・ギャラガーに訊いてみろよ!」と激怒していたこともあるのだとか。
1993年にオアシスと契約を結び、翌年にデビューさせたアランだが、ノエル・ギャラガーはクリエイションとの契約が実現し初めて事務所に赴いた時のことを次のように振り返っている。
クリエイションの事務所に初めて行った日のことなんだけど、社長だったティム・アボットの机の後ろの壁にはマジックインキで「Northern Ignorance」(北部の無知。つまり、ロンドンの事情などはまるで意に介しない北部魂のこと)と殴り書きされてあってね。
それを見て思ったんだよ。「これって俺のことをよく言い表わしてんな。ここ気に入ったな、まだ着いてから2分しか経ってないけどってね。
なお、クリエイション・レコーズはレーベル設立当時に全盛期を迎えていたニュー・ウェーヴ系ポップには迎合せず、独自の路線を築いたこともその成功に繋がったと言える。そのクリエイションの精神について、アランは次のように説明している。
パンクとサイケを混ぜ合わせていこうというのが俺とジョー・フォスターのアイディアだった。どっちもテレヴィジョン・パーソナリティーズが大好きだったからね。
だから、ダン・トリーシーのあの思想、クリエイションの精神はそこから生まれたんだよ。
そして、「The Guardian」によるインタビューの中で「ボビー・ギレスピーなしにクリエイション・レコーズは語れない」と話していたこともあるアランは、「真のヒーロー」と称するボビーについても次のように語っている。
ボビーがクリエイション・レコードの真のヒーローなんだよ。(共同創立者の)ディック・グリーンが(サッカーの)ウィングの片方だったら、俺はもう片方で、ボビーがセンター・フォワードだったんだ。クリエイションと契約してみたいとみんなを引き寄せてたのはボビーだったんだよ。
一方でボビー・ギレスピーは、自身がまだジーザス&メリー・チェインに在籍していた頃、アランが自分たちのパフォーマンスを初めて観た時のことを次のように語っていたと明かす。
アラン・マッギーがジーザス&メリー・チェインを初めて観たのは、アランのクラブでのサウンドチェックでのことさ。とてつもないバンドだと思ったらしいんだ。「イカれてるし、ぶっとびだし、あれは音楽とは言えないけど完璧な情熱だ」って言ってたね。
クリエイションの設立当初の1984年に契約したジーザス&メリー・チェインは、クリエイションの歴史を描いた『アップサイド・ダウン: クリエイションレコーズ・ストーリー』(2010)のタイトルにも冠されたシングル、“Upside Down”でデビューを飾った。
しかしバンドは、翌年の1985年にアルバムをリリースしないままクリエイションを離れている。ジム・リードはこのことについて、移籍したことを「後悔している」としつつ次のように当時を振り返っている。
正直言って、クリエイションをやめたことは後悔してるよ。でも俺たちが契約してた頃のクリエイションなんて、まだロクなもんじゃなかったから。その頃のクリエイションがどういうところだったかというと、バンドの俺たちがアランのトッテナムの部屋でレコード・ジャケットをビニール袋に詰めてるっていう、その程度のレーベルだったからね。
俺たちにはいろいろデカい計画があったんだ。俺はポップ・スターになりたかったんだからさ。
また、1991年の名盤『ラヴレス』のレコーディングに2年以上費やし、その破格の制作費でクリエイションを倒産に追い込むところだったとも言われているマイ・ブラッディ・ヴァレンタインは、結成から数年後にクリエイションに移籍。移籍後すぐにリリースした“You Made Me Realise”でブレイクを果たした。ケヴィン・シールズは、バンドのサウンドについて次のように語っている。
あの頃、チャック・ベリーやピクシーズがよくやる、ギターの弦を2本チョーキングする奏法をマスターしようと思ってたんだよ。その時ふと、弦を2本まったく同じ音程にチューニングして、それでトレモロ・アームで音を上下させてみたらどうかなって閃いてね。
それをやってみたら、素晴らしく表情豊かな奏法を発見したんだよ。それから4日、5日くらいのうちに僕たちのバンドのサウンドが完成したんだ。
こうして数多くのバンドと共にさまざまな伝説を生み出したクリエイション・レコーズだが、設立から16年後の1999年、経営難を理由に閉鎖に追い込まれることとなった。
クリエイション・レコーズが最後に契約を結んだスーパー・ファーリー・アニマルズは、1995年にアランに見出されて契約を申し出された際、アランから「できればこの先はウェールズ語じゃなくて英語で歌ってほしいんだけど」と言われた(バンドは英語で歌っているつもりだった)という逸話を残している。
1996年にデビュー・アルバム『ファジー・ロジック』をリリースし、1999年のクリエイションの倒産まで在籍し続けたバンドのフロントマン、グリフ・リースは、クリエイションの閉鎖に際し以下のようなコメントを残している。
ノストラダムスは、確かにクリエイション(神の創造物)が1999年に終わると予言しているんだよ……
でも、それが具体的に地球上のロックのレーベルを指しているかどうかまでは言ってないんだけどね。