ボブ・ディランとケンドリック・ラマー、2人の詩人が「FRF'18」で競演する特別な意味とは?

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3月16日、「FUJI ROCK FESTIVAL ‘18」へのボブ・ディラン出演決定が報じられたときには、僕も御多分に洩れず拳を握った。フジで5年ぶりにケンドリック・ラマースクリレックスが帰還してN.E.R.Dも観ることができる、という第1弾ラインナップにはもちろん興奮したものの、いよいよ本格的にヘッドライナー級の大物ロック・アクトが見当たらないじゃないか、と思っていた矢先の発表だったからだ。これで文句なしである。

それと同時に、米「Billboard」が今夏のフジロックについて「2001年を彷彿」と報じたことについても、まったく同じことを考えていたもので「なんで米メディアが先に書いているんだ」と少し悔しい思いをした。2001年の年明けをニール・ヤングのライブ盤『ロード・ロック・ヴォリューム・ワン』を聴きながら迎えていた僕にとって、あのときのブッキングも神がかり的としか思えないものであり、D12を引き連れたエミネムのステージでは“Stan”の大合唱に加わった(もちろん、オアシスのライブではもっと歌った)。


でも、2001年フジロックの直後に同時多発テロが起きて、世界は大きく変わってしまった。音楽の役割は変わっていないにせよ、表現スタイルのトレンドや音楽の聴き方は、やはり大きく変わった。ケンドリック・ラマーは、1990年代にかけて巨万の富と血生臭い混乱を生んだギャングスタ・ラップの爆心地=カリフォルニア州コンプトンで少年時代を過ごしてきた、つまり「それ以降のアメリカ」の語り部だ。一方、ボブ・ディランは1997年の『タイム・アウト・オブ・マインド』でグラミーの最優秀アルバム賞を獲得して以来、21世紀を円熟の無敵モードで過ごしてきたと言える。

ボブ・ディランとケンドリック・ラマーが出演する今夏のフジロックは、確かにUSポップ・ミュージックを代表する偉大な詩人たちの共演/競演である。ただし先に言ってしまうと、どちらが優れた詩人か、という単純比較は意味を持たない。2人は生きてきた時代も時間の長さも、環境も異なっている。ファレル・ウィリアムスは2012年に「ケンドリックはこの時代のボブ・ディランだ」とツイートしたが、例えば、バスケットボール選手だったマイケル・ジョーダンなら「彼らは私たちから学んでいるが、私たちは彼らから学ばなかった」と言うぐらいのギャップがあるはずだ。


ボブ・ディランの“A Hard Rain’s A-Gonna Fall”や“Hurricane”と、ケンドリック・ラマーの“The Blacker the Berry”や“DUCKWORTH.”を比較し、どちらが優れているかを決めるなんてのはまるで意味のないことだが、それでも共通している点を挙げるとするなら、鋭くつぶさな筆致で暗澹とした現実の街角を描写し、そこで紡いだ物語を優れたポップ・ミュージックへと仕立て上げていることだろう。彼らの放ってきたメッセージというのは社会の表層的な体制や慣習に向けられたものではなく、鋭利なドキュメンタリー映像や戦争写真のように、具体的な問題を最優先に提起して多くの人々の思考を触発するものだ。だから、たとえラブ・ソングやボースティングであっても、切実さや熱量は変わらないのである。

アメリカのスタンダード曲を3枚組ものボリュームでカバーした『トリプリケート』を例に挙げるまでもなく、ボブ・ディランと彼のバンドは一発録りで驚異的なクオリティのアルバムを作り上げてしまう実力をもって、ロック史に残されてきた数々の名曲を届けてくれるだろう。そしてケンドリック・ラマーもまた前回同様のバンド・セットでの登場に期待がかかるし、これまでの期間に華やかな大舞台で繰り広げられてきたような、ダイナミックで鬼気迫るパフォーマンスを見せてくれるはずだ。彼らの言霊が夏の苗場にどんな記憶を刻みつけてくれるのか、今から楽しみで仕方がない。(小池宏和)
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