【ロッキング・オンを読む】クイーン特集、完全ディスコグラフィー後編 :『ザ・ゲーム』から『メイド・イン・ヘヴン』まで【全文公開】

【ロッキング・オンを読む】クイーン特集、完全ディスコグラフィー後編 :『ザ・ゲーム』から『メイド・イン・ヘヴン』まで【全文公開】 - 『rockin'on』2018年12月号より『rockin'on』2018年12月号より

『カインド・オブ・マジック』(1986年)

「大復活の狼煙となるはずだった」

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このアルバムではクイーン本来のロック・サウンドが顕著に蘇っているのが特徴的だが、その一方でシンセをベースにしたバラードやR&B曲も多く、なんとも掴みどころのない内容になっている。それはどうしてかというと、まずひとつにはこの前年に出演したライヴ・エイドでのステージがあまりの大絶賛を受けたため、『ザ・ゲーム』までのバンド・アプローチが今でも求められていることをバンドも実感し、それが影響していたことがある。しかし、その一方で本作は映画『ハイランダー 悪魔の戦士』のサントラとしても制作されていて、まったく別なベクトルが同時に働いてしまったのだ。

ただ、タイトル曲に代表されるどこまでもポップな曲作りと“ONE VISION―ひとつだけの世界―”や“プリンシス・オブ・ザ・ユニヴァース”のクイーンらしいロック・サウンドが同居したこの内容は、とりとめはなくても、彼らのバンドとしてのモチベーションが確実に戻ってきていることをよく物語ってもいて、ある意味で、ここからさらなるピークを迎えることも考えられなくなかったはずだ。しかし、このアルバムを引っ提げたヨーロッパ・ツアーの後、フレディ・マーキュリーのエイズ発症が明らかになったのだった。

ブライアン・メイが単独で作曲した“ギミ・ザ・プライズ”などはひたすらリフをたたみかけていく内容で、当時の彼の鬱憤を爆発させたプレイが強烈だ。バンド内では当時不評だったというが、その後もツアーを続けていたらきっとライブ定番曲になっていたはずだ。(高見展)

『クイーン・ライヴ!! ウェンブリー』(1992年)

「予期せず有終の美となった最高のライブ」

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本作は、フレディ・マーキュリーの死から半年後にリリースされた。1986年に欧州を回った「マジック・ツアー」から、7月11日と12日、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われたライブ。フレディをフロントにご機嫌でステージに立つクイーンの最後の記録だ。この前年に世界中継されたチャリティ・イベント「ライヴ・エイド」で健在ぶりを示したこともあり、欧州を回ったこのツアーは200万人以上を動員、この2日間も15万人が集まった。

映像作品や25周年盤では2日間を通して収録しているが、通常盤は主に12日の記録で、『カインド・オブ・マジック』からの“ONE VISION―ひとつだけの世界―”を幕開けに“アンダー・プレッシャー”、“地獄へ道づれ”など新旧ヒットを連発しながらスケール感のある演奏を展開。中盤ではアコースティック・セットで“ラヴ・オブ・マイ・ライフ”などを聴かせ、後半は“ハロー・メリー・ルー”などR&Rスタンダードも演奏する。フレディの声も素晴らしく、この時の彼らが絶好調であったことがわかる。映像も含めて記録していたのは、もしかしたらワールド・ツアーでもやって、その後にライブ作品として発表するつもりだったのか。それともこれが最後と思っていたのだろうか。このツアーの後2年ほど4人が揃うことはなく、再度集まった彼らは新作『ザ・ミラクル』、『イニュエンドウ』を制作。そしてフレディの死を迎えることになる。彼らのライブ作品は幾つかあるが、この最高のライブを今も楽しめることに心から感謝したい。(今井智子)

『ザ・ミラクル』(1989年)

「バンドの歴史の隙間に落ち込んだ悲しき力作」

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1989年に本作がリリースされた時、世界は諸手を挙げて歓迎した。何しろ『カインド・オブ・マジック』以来3年ぶりの新作だ。しかも『ライヴ・マジック』こそ出したが、メンバーはその間それぞれに活動しており、バンドのことなど忘れているようにも見えた。だが彼らは1988年1月からスタジオに入り、1年かけて新作を完成させた。4人の顔を重ねたジャケット・デザインは4人の融合を思わせたし、楽曲クレジットも個人名でなく“クイーン”に統一されている。そして、これぞクイーン!と思わせるサウンド、楽曲の数々。ファンにとってはまさにミラクルだった。イギリスをはじめ欧州の大半でアルバム・チャート1位を獲得、シングル“アイ・ウォント・イット・オール”もヒットした。

当然ツアーが行われるものと思われたが、バンドはツアーをしないとアナウンス。それがフレディ・マーキュリーのエイズ発症のためとは公表されなかった。当時から噂はあったようだが、正式に発表されたのはフレディ最後の参加作となる『イニュエンドウ』がリリースされた約9ヶ月後だ。その翌日、フレディはこの世を去る。こうした悲しくもドラマチックな展開のために本作は影が薄くなっているが、そうでなければ第3期クイーン幕開けの作として記憶されたのではないだろうか。

ちょうどアナログからCDへとメディアが移行していた時期で当時も両方で発売されたが、作る方のマインドとしてはレコード中心だったのではなかろうか。レコードでA面になる1〜5曲はバンド感満載のロックがメイン、B面の5曲はシンセも多用したサウンドでまとめている。当時のCDにはボーナス・トラック3曲が追加されたが最新のデラックス版は計17曲入っている。

今となれば、「パーティは終わった」と始まり乱痴気騒ぎやスキャンダルに翻弄され、「ロックンロール・ライフに価値はあったか? そう、価値ある経験だった」と終わる流れは、クイーンの歴史を綴っているようでもある。奇跡の待望を歌う表題曲は、治療法が未熟な病と闘うフレディの心の叫びのようだ。本作制作中にフレディは病のことをメンバーに告げたと伝えられている。運命を受け入れながらも希望を捨てず、4人が一つになって難問に立ち向かう、そんな思いが本作にあるように思うのは私だけだろうか。(今井智子)

『イニュエンドウ』(1991年)

「生き続けるフレディの魂」

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フレディ・マーキュリーが亡くなる約9ヶ月前にリリースされた『イニュエンドウ』。彼の存命中にレコーディングされた実質的なラスト・アルバムである本作を聴く時、その死を意識しないでいることは難しい。“輝ける日々”のMVでは、病に蝕まれやせ細ったフレディが《今も君を愛している》と歌い、最後にはカメラ越しに柔らかく微笑んでみせる。あのラスト・シーンに、別れの挨拶の意味合いを感じ取ったファンも多かったはずだ。しかし同時に、このアルバムほどフレディの命を、彼が生きた証を鮮烈に感じられる作品も滅多にないのだ。デヴィッド・ボウイの『★(ブラックスター)』がそうだったように、『イニュエンドウ』はフェイドアウトではなく、消えかけていた炎が再び熱く激しく燃え上がるかのような、クイーンらしさ、フレディらしさを極限まで高めて包括した傑作だ。

フレディの容態は日に日に悪化し、彼らは当初の予定よりも時間をかけて本作の完成に漕ぎ付けている。にも拘らず、ここにあるのは逆境を感じさせない4人の脂が乗り切ったパフォーマンスであり、リスナーの海馬を覚醒させるフレディのファルセットも、全盛期と比べて全く遜色がない。6分30秒強にわたってオペラ、フラメンコ、フォーク、サイケと転調を続けるタイトル曲は、“ボヘミアン・ラプソディ”に匹敵するエピック・チューン。ド派手なギター・ソロとコーラスが一歩も引かず拮抗する“ヘッドロング”、フレディがシェイクスピア役者のように歌い上げている様が目に浮かぶ“ドント・トライ・ソー・ハード”、そして白塗りのフレディが道化師やペンギンに扮したメンバーたちと共にシュールで幻惑的な世界に誘う“狂気への序曲”のMVに至るまで、クイーンらしさが凝縮されている。

シンセ・サウンドへの接近、ファンクやソウルへの傾倒によってクイーンらしさを打ち消す方向に流れていた80年代を反面教師とするように、70年代の華麗にして異形のハード・ロック・バンド=クイーンの復活を告げたのが本作であり、むしろ本作でこそフレディは永遠の命を手にしたのだと思う。

本作の最後を飾るのは“ショウ・マスト・ゴー・オン”。《ステージの上にこそ僕の命はある。さあ、ショウを続けよう》と歌う、完璧な幕切れのナンバーだ。いや、これは幕切れではない。フレディと我々の「約束」の始まりなのだ。(粉川しの)

『メイド・イン・ヘヴン』(1995年)

「90年代的な手法で届けられた、天からの歌声」

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フレディ・マーキュリーは、自身の民族的ルーツやセクシュアリティなどについて、積極的に語ることがなかったという。HIVポジティブとして過ごした晩年も、既に噂は広まっていたが病名については明言することなく、ただアーティストとして生を全うするためにサポートを願い出ていたと、ロジャー・テイラーは証言している。それは、どれほどの孤独だったろう。フレディの抱えた巨大な孤独が、表現者としての反動的なパワーの源となっていたことを想像せずにはいられない。

1991年11月、米プロ・バスケットボールのスーパースターであるマジック・ジョンソン(僕のアイドルだ)がHIV感染を理由に引退を表明し、その数週間後にフレディが亡くなった。当時はHIVの治療や一般の理解が今日より遥かに不十分で、高校生だった僕は不治の病という噂に踊らされ、悲嘆に暮れた。しかしマジックは今日も健在である。急速に治療法が発展・普及したおかげもあるだろう。たらればの話をしても仕方がないが、もし、フレディが自身の病について周囲と相談していてくれたなら、45歳という若さで天に召される運命は違っていたかもしれない。

『メイド・イン・ヘヴン』はフレディの遺作というより、残されたメンバー3人がフレディとファンのために力を結集させて制作したという性格が強い。生前のボーカル・トラックやメンバーが持ち寄った楽曲を編集し、表題曲“メイド・イン・ヘヴン”や日本でテレビCM曲としても多用されることになる“ボーン・トゥ・ラヴ・ユー”はフレディのソロ作『Mr.バッド・ガイ』収録曲のトラックをバンド演奏に差し替えた新音源になっている。

生と死、天国といった主題を数多くちりばめた作風はリリース当時にも余りにセンチメンタルだと思えたし、過剰プロデュースにならざるを得なかった部分はある。しかし今思い返すと、ポップ・ミュージック史の再検証とサンプリング文化の時代だったあの90年代、最新テクノロジーを駆使してファンの思いに応えようとする作品が生まれたのは必然だったのかもしれない。同様の手法で新曲を収めた『ザ・ビートルズ・アンソロジー』シリーズが同時期に発表されたのは、あながち偶然とも思えない。『メイド・イン・ヘヴン』とはある意味、ファンが生み出したクイーン像だったのだ。(小池宏和)
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