6月1日に舞踏家・大野一雄が亡くなったが、アントニー&ザ・ジョンソンズのアントニーが大野を回顧する記事をガーディアン紙に寄稿している。
記事は大野一雄のキャリアを詳細に振り返りつつ、後半にかけて自身と大野との関わりを解いていくものになっていて、アントニーらしく踏み込んだ解釈を入れつつ大野一雄の表現を紐解いていくのが興味深い。
特に大野一雄の独自の世界観についてアンソニーは大野のキャリアをなぞりながらこう解説する。「60年以降、土方巽が大野一雄らを主役に据えたソロ・パフォーマンスを演出していくことになるが、その第一弾はジャン・ジュネが道徳の錯綜を描いた43年の小説で、性転換をした死にゆく娼婦に捧げられた『ノートルダムの花』を題材にした60年の『土方巽DANCE EXPERIENCEの会』における『ディヴィーヌ抄』だった。その出会いから大野と土方は陰陽とでも言うべき対極の関係にあった。その後の舞踏の踊り手には不可解なまでのストイシズムや観るに耐えないような稚拙さを体現する者も登場した一方で、大野は常にその夢幻のような表現のなかに、より幽玄で、女性的で、恍惚としたものを形にしてみせていた」。
「大野が最初に国際的な注目を浴びたのは77年に土方が演出した『ラ・アルヘンチーナ頌』で、この作品で大野はアルゼンチンの舞踏家アントニオ・メルセへの夢見心地のようなオマージュを踊ってみせ、この作品は日本では舞踏家批評家協会賞に輝くことになった。大野は息子の慶人とも舞台をともにすることが多く、『わたしのお母さん』『睡蓮』『死海』などといった作品で共演している」
アントニーは大野との出会いや関係をこう回想する。「ぼくが10代だった87年、フランスの北西部にあるアンジュで、はがれかけた大野一雄のポスターを街で見かけたのがぼくと大野の出会いだった。その謎めいた肖像にいっぺんに虜になってしまったぼくは、その絵をベッドの枕もとの壁に飾ることにして、それは今もそのままになっている。その後、大野一雄というアーティストと作品についてもっと多くのことを知れば知るほど、大野の舞踏と哲学はぼくにとって絶大なインスピレーションになるようになり、09年には、アルバム『クライング・ライト』のジャケットに大野の写真を使うことにした。
今年の年頭にぼくは60年近く前に設立された大野一雄舞踏研究所を訪れ、慶人とともに父一雄の生き様と作品世界を祝福するパフォーマンスをコラボレーションとして行った(『Antony and the Ohnos 魂の糧』)。大野一雄の病床で、ぼくは驚異的なまでの生命力を感じて、それはまるでその老いた体躯を通して感じられる、目には見えない動きの反響のようにも感じられた。大野が横たわる側の窓からは桜の木と富士山が見えて、それを目の当たりにして、ぼくは大野が生み出したクリエイティヴなアプローチとは、自身の精神的な追求心の副産物にしかすぎなかったことを理解した。慶人には研究所をぼくが訪れている間、踊り手たちが完全な自由を味わったと伝えられ、それは普遍的な愛から生まれたものだと教えてもらった」。