ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのモー・タッカー、ルーへの追悼コメントを発表

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのモー・タッカー、ルーへの追悼コメントを発表

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのモーリン・タッカーは10月に他界したルー・リードとの関係がどのようなものであったか、『ザ・ガーディアン』紙に語っている。

モーリン・タッカーはルーと初めて会ったのは自分の兄を介してのことだったと語っていて、さらにルーはその後バンドを一緒に結成するスターリング・モリソンと知り合ったのも、モーリン・タッカーの兄を通してのことだったと語っている。その後ルーとスターリングがバンド活動を本格化させると、オリジナルのドラマーがやめることになり、モーは別のバンドでドラムを叩いていたこともあって、急遽ルーとスターリングのバンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドで叩くことになったのだとモーは振り返っている。元々モーリン・タッカーはビートルズやストーンズの作品を追っかけるようなポップ・ファンで、自分がドラムを担当していたバンドもそういう音楽をメインにしていたので、ヴェルヴェットでのアヴァンギャルドな実験性というのは相当な飛躍だったと語っている。

「初めてヴェルヴェット・アンダーグラウンドとして演奏したライヴ(ニュージャージー州で1965年12月11日)では3曲("もう一度彼女が行くところ"、"毛皮のヴィーナス"、"ヘロイン")を演奏したの。たくさんの人たちが戸惑ってたわ。途中で帰った人たちもたくさんいたから。ルーはそういうのが結構楽しかったみたい。それからニューヨークのカフェ・ビザールに出演した時にはオーナーがドラムがうるさすぎるのが嫌いな人で、しようがないからタンバリンで間に合わせることにしたんだけど。私はタンバリンの音が大好きだから、それはそれで文句もなかったの。そして、その店で私たちはアンディ・ウォーホールに紹介されたのよね。

それはそれまで私が知っていた世界とはまったく別世界の話で、特にアンディを慕う人たちで構成されたアンディの(アトリエの)ファクトリーに来るオーディエンスはそれまで知っていた世界とはまるで違ってたけど、すごく刺激的で楽しかった。だから、特に圧倒されたり、不安は感じなかったし、スターリングのことは11歳の頃から知ってたからスターリングがいればすごく心強いというか。ジョン(・ケール)とルーはアイディアがいっぱいで。私は自分たちのやってることにすごく刺激されてて、たとえば、あの重低音や歌詞、ノイズとか私たちのアプローチはまったく新しいもので刺激的だったし、そこにポップ・イマジネーションも働いていたのね。

そもそもルーはものすごいポップ・ファンでものすごいレコード・コレクションを持ってて。それは50年代からのシングル・コレクションで、聴いたことのないロックンロール・アーティストやドゥーワップ・アーティストのものが、これでもかというくらいに揃ってて、ヴィレッジにあったルーの自宅にみんなで寄ってみて、そういうレコードをモノラル・レコード・プレーヤーでかけて聴かせてくれた時のことをよく憶えてるわ。ルーは『このドラム・サウンドがすごいんだよ』とか『ギターをちょっと弾くところがいいんだけど』と解説をつけてシングルをかけるんだけど、ものすごくディテールにこだわっていたのね。そういうディテールまでルーはすべて吸収していて、それをヴェルヴェッツに投入していたわけ。スタジオではいつもできる限りライヴに近い音を出したがっていたし」

また、ヴェルヴェッツの目指していた音についてモーは方向性などを話し合ったことはなく、ただ誰も作っていないような音楽を作って、そして、それは当時あまり聴かれない音楽だったと語っている。「とりあえず、ピース・アンド・ラヴじゃなかったことは確かだから。でも、私たち対世界というものでもなくて、むしろ私たち対サンフランシスコというものではあったのね。世の中のヒッピーから私たちは毛嫌いされてたし、私たちもヒッピーはあまり好きじゃなかったから」と語っている。

また、ルーについてモーは次のように振り返っている。
「ルーには確かにある定評はあったわよね。人当りはきつかったし、気難しくて何かとことを荒げるところがあったけど、でも、ルーがそういう態度に出るのはなんかヘボいことになった時だと私にはわかってたけど。相手がウェイターでもレコード・プロデューサーでも、とにかくまともな仕事になってないとルーはその相手を八つ裂きにしちゃうのよ。バカをおだてる程お人よしじゃなかったというだけで。これはもうルーの性格だったんだけど、でも、その一方でものすごく人のことを応援して寛大な人でもあったのよね。私たちは何をやっててもずっと親友だったし。私たちの間ではバンドの中で兄貴と妹みたいな関係になってて、解散してからもそれはずっと変わらないままだった。クリスマス・カードやヴァレンタイン・カードをずっと送り合う仲だったし。大して会うことがなくても何も変わらないような、そういう友情だったの。2年とか5年に1度会えば、それでもう昨日会ったかのような感じだった。歳を取れば取るほど、そういう友情は稀有なものだとわかってくるから、なおさら惜しまれるのよね。急にもうルーはいないんだということが今更のようにわかってきたというか。

スターリングが亡くなった時、これもがっかりしたけど、でももう予期していたことではあったわけ。ルーについてはそんなに病状が重いとは知らなかったから。肝臓移植手術を受けていたのは知っていて、以前のように元気ではなくなるのかなとは思ってたけど、だけど、心の準備が出来てなかったから。とてもしんどかった。しんどかったわ。

私たちは楽しいことをたくさんしたし、人を嫌がらせることですごく楽しんだの。ライヴをやって途中で帰る人が多ければ多いほどそれはライヴがよかったということだと、よく冗談で言ってたものだし。今考えると、あの頃が最高だったと思う。相応な時期に私たちは解散したし、傑作アルバムを何枚か後に残せたと思うし。これはキャリアというものじゃなかったのね。私たちは他のグループのようにひたすら活動し続けるということはしなかったけれども、たくさんの人に影響を与えることにはなったから」
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