人はなぜ遠くへ行きたいと歌うのか――について書いたコラム的な文章(後編)

人はなぜ遠くへ行きたいと歌うのか――について書いたコラム的な文章(後編)

続きです。

さて、”遠くへ行きたい”だが、タイトルを聞いた時は、ご多分に漏れず、「ここではないどこか」の歌だと思っていた。
しかし、である。
聴けばわかるが、この曲は思い切り、「ここでしかないここ」の歌じゃないか。
(以下は本当に楽曲を聴いてから読んでもらったほうがいいと思います)

下北沢、高円寺、吉祥寺、恵比寿――まさに「すぐそこ」の話である。
半径十数キロの街への思いが徒然なるままに歌われる。
ま、言ってしまえば、どちらかというと地味な、とても生活的な歌である。

ところが、それがちょっとどうかと思うほどに切ない。
メロディが切ないという事実は確かにある。
いわゆる歌謡曲であって、ビートはとても小気味よいが、その一定のビートが、より一層の寂寞感を浮かび上がらせる。
スウェーデンのポップソングは明るい。明るいが、その明るさにはどこかいかにも北欧的な陰りがあって、爽やかテンションであればあるほど何だが狂っているような、うすら怖い閉塞感がある、というのにちょっと似ている。
すぐそこにある街に、小気味よいビートを効かせツラツラと思いを馳せる、というのは、いかにもどこにも行けないことをわかっている感じがして、とても切ない。

「遠くへ行きたい」という思いを歌った歌は、元来、「ここではないどこか」的などこかを歌った歌になるものである。
人間の中にある潜在的欲求を、「歌」というある種エモーショナルでメタフィジカルなメディアに落とし込む場合、「遠く」というコンセプトは現実的及び物理的距離をメタに超越し、それを象徴化させたうえでの「概念」になる、ということになっている。
音楽における、「遠く」というのはそういうことなんじゃないだろうか。きっとそうだ。

先ほども書いたように、この曲はとても切ない。
そして、それは、この「どこか」を夢想することを宿命づけられたメディアにおいて、「どこにも行けないこと」を歌っているから、である。
飛べない豚でも豚は豚としての価値があるが、飛べない鳥の「鳥じゃなさ」は半端ない。
ダチョウが必死に走る姿はちょっと切ない。
あの切なさは、速く走ればいつか体が浮くんじゃないかと思っている現実逃避の疾走に見えるから、なんじゃないかと僕は思っている。
あ、確か、「現実逃避」のことを心理学用語ではオーストリッチ症候群っていうんじゃなかったっけ? 由来は違うと思うけど。

だが、この曲も、見方を変えれば、やはり「ここではないどこか」の歌なんじゃないか、と思うところもある。
つまり、恵比寿も高円寺も下北沢も――君さえいればどこだって――「ここではないどこか」になる、ということだ。
それはそれであまりに切ないじゃないか。
この歌の主人公にとって、片道最低料金140円(suicaなら133円)で行ける「ここ」は、君さえいれば、そこはかとないハピネスが待っていそうな「どこか」なんだ、ということなのだ。
うーむ、なんたる現実観。
グーグルアースで世界一周しているほうが明るく楽しいニコニコ僕のバーチャル生活、という感じがしてくる。
あるいは、「付き合い始めた瞬間、金を使わなくなった彼氏」「釣った魚に餌をやらない男」「うちの旦那、娘をどこにも連れていかないのよぉ、まったく甲斐性なしなんだから」「生まれ変わったら同じ旦那と結婚したいですかアンケートは日本がぶっちぎり最下位」なんて言葉がにわかに浮かんでくるではないか。
いやあ反省反省。ってそんなことはどうでもいい。
なぜなら、僕は僕と嫁のスリリングな関係性の話なんかじゃなく、高尚なる文学の話をしているからだ(たぶん)。

近くにある遠いところ。
近くて、どうやっても行けないところ。
君がいないと、「ここ」も「どこか」も同じであるということ。
そして、君さえいれば、「ここ」は「どこか」になるんだ、ということ。

このスタンスは諦念的であると言っていい。
と同時に、とても情緒的で、何よりも歌謡的であると僕は思う。

半径5メートルのエトセトラを歌った歌が多い世の中で、この「遠くのどこか」論というのは際立って文学的なスタンスだなと思う。
逆に言えば、今この時代においてはこのやり方でしか、「どこか遠く」は描けないのではないだろうか。
「ここ」を描くことで、「どこか」が際立ってくるという不思議で素敵な現象、パラドックス。
メビウスの輪、みたいな話だ。うーむ、深遠。

何はともあれ、POLTA”遠くへ行きたい”をぜひとも聴いてみてもらいたい。
本当に素晴らしい曲だと思いますので。
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