ceroはタフでカッコいい。
どちらかというと、文系でかわいいというイメージかもしれないが、ライヴを観るたびにぼくのなかでイメージがガンガン更新されて行く。
かわいいと言われる要素は三人のキャラクター的なルックスと演奏中の楽しさをお裾分けしてくれるような振る舞いなのだろう。
三人もそういうキャラクターとイメージを楽しんでいるところがあるし、音楽的な振れ幅として逆手に取っている部分もある。
とてもクレバーな三人だから、それはそれで、と楽しみ、うまく付き合っている。
ただ、ライヴでのceroは音に貪欲な生き物のようだ。
すべての音を等しく丸呑みにしてしまう。
ほっこりとするメロディも美しいハーモニーも、焦燥的なギターノイズも、サイケデリックなコラージュ音も全部ごろっとした状態のまま呑み込んで、パラレルな世界からの調べのようにファンタジックな音楽を生み出してしまう。
それは、作り込む、構築するというより、もっとプリミティブで本能的な営みのように見える。
そんなことができるのは、きっと彼らが、日常的に頭に浮かぶものはすべて生活に必要な音、というか、世の中の必然として生まれたものなんだからうまく付き合い、音楽にしちゃえばいいのだ、というような、ポジティブな諦念としなやかな哲学を持っているからだ。
それはこの不条理で無情な都市を生きる上でもっともタフで有効な思考法でもある。
詳しくはJAPANに載るライヴレポートを読んでほしいが、様々なトラブルすら、アトラクションのように見せてしまえるのは、トラブルやうまくいかないことも含めて生活であり、音楽なのだということを彼らは本質的に知っているからだろう。
今日のAXはそんなceroのタフでカッコいい生き様が露わになったすごく貴重なライヴだった。
東京に生まれ、そのまま30何年も過ごしてきたぼくにとって、これほど気分を言い当ててくれる音楽はそうない。