Vivian Girlsとカート・コバーン

Vivian Girlsとカート・コバーン

渋谷O-nestでのVivian Girls。
たしかにそれはラブリーでガーリーでキュートなロックだった。
思ってたより上手かったのは意外だったけど。

ギター&ボーカルのキャシーが、そのブロンドの髪を無造作にたらして歌うさまは、
確かにカート・コバーンを彷彿とさせた。というか好きなんだろうなと思わせた。
しかし、鳴らしているのは、ヴァセリンズである。
その経路が面白い。
そして、それはつまりどういうことかといえば、男根主義への拒否である。

女子3人組なのだからして、それだけでアンチ男根主義かといえばそうではない。
女子による男根主義ロックは腐るほどある。
それではそもそも男根主義ロックとは何かといえば、
自己のリビドーの果てしない充足こそを求めるロックである。
自己拡張のロックであって、他者抑圧のロックであって、
まあ、平たく言ってしまえば、ステージの上の俺が一番ということだ。
そういうとなんだかなだけど、ほとんどのロックとは、
そうしたリビドーを内包している。
そもそもが自己証明への渇望があるからだ。

カート・コバーンがヴァセリンズに見たものとはその否定である。
なぜかといえば、カートはすでに「敗北した白人」だったからだ。
彼にとって世界とはまず「勝者」としてあった。
色とりどりのメイクをしたハード・ロックやMTVでダンスするスターたち、
あるいはステイタスへの欲望こそを音楽にしたあまたのラッパーたちはみな、
勝者の雄たけびか勝者の微笑を見せつけていた。
だから彼はいつも気分がLOWで、吐きそうだった。
そんな彼からすれば、グラスゴーのユージンとフランシスが鳴らしていたロックは、
なんと非暴力的なものに映っただろう。
それは、ロックでありながら、ほかとはまったく異なる倫理を持つものだったのだから。
そんなカートが心血を注いだニルヴァーナの「ハード・ロック」が
なぜあれほど痛々しく、そして、いとおしく聴こえていたのか。
その理由はそこにある。

Vivian Girlsが鳴らしていたのも、それだった。
だからそれは、ラブリーでガーリーでキュートであるということそれだけですでに、
闘いなのである。
彼女たちは、何気なく楽器を手にしたわけではない、のだ。

アンコールのラストはあの、
1分ちょっとの間ずっとそれしか言わないナンバー、
「NO」だった。
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