ピコピコなシンセ、単純なリズム、たとたどしいギター、バブルガムにもほどがあるメロディとコーラス。そこに、恋をしたといっては浮かれ、失恋したといっては泣き、友には親友だと呼びかけ、ママには「サーフィン行きたいよー」と叫ぶ、ほとんど中学生レベルのリリックをブチまける。それがThe Drumsである。
いうまでもなく現在は2010年である。1950年ではない。明日学校に行く前の晩に、何を着ていったらあの娘の気を引けるかと思い悩むような幸福な悩みはどこにもない。裏サイトに書き込まれた自分に対する膨大な罵詈雑言を目で追って無表情になる、そういう夜しかない。だから世界は複雑で、それに対処するわれわれも複雑でしかも、怪奇になった。そういう世の中を映し出す音楽が、自然、そのように複雑で怪奇なものへと、あるいはそれを語る複雑で怪奇な文体へとシフトしていくのは、必然で不可避なことである。
そんな中に鳴り響くThe Drumsは、だから、言ってみれば阿呆である。正しくないし、能天気にもほどがある。――とは、まったく思えない。むしろ、ロック史においてここ20年ほど、ほとんどタブー視されてきたこの音が伝えるものは、まさしく時代的であって、普遍的なものだ。
フロントマンであるジョナサン・ピアースは、牧師の家に育ち、幼い頃は宗教関連の音楽しか聴くことを許されなかったそうである。彼がロックと出会うきっかけとなったのが、The Smithsであったというのは偶然というにはあまりに運命的としかいいようがない。
The Smithsは、いわば「明るく語られる青春」がどれだけ絶望的なものであるのか、それだけを描いたバンドだった。一方、The Drumsは、いわば「いまやどこにもなくなってしまった青春」を奪還するかのように、それだけを歌うために登場してきたバンドである。もちろん、そんなThe Drumsの欲望が、ジョナサン・ピアースの「失われた青春」にあることは言うまでもないだろう。ジョナサンは、そもそも奪還しなければならないのだ。
一見すると、The SmithsとThe Drumsは、真逆の方向にあるように見える。けれど、実は同じである。The Smithsは60年代のガールス・ポップの意匠にのせて、とびきりに憂鬱な歌を歌ったのだし、The Drumsは50年代のクラシック・ポップのクリシェを丸ごと借りながら、輝けば輝くほどせつなくなる「もうそこにない」歌を歌っているのだ。どちらも、あまりに哀しい。しかし、その哀しさは、ただの一度たりともわれわれから離れることのないものなのである。