この曲は、ロックを愛するすべての人の心を撃ち抜くストレートな言葉で、リスナーの存在そのものを丸ごと肯定する大きな愛に満ちた歌だ。歌っているのは誰もが名前を知るビッグアーティストではない。結成からまだ2年半ほどのニューカマーのバンドである。それでも、《君は間違っていないよって今 歌うよ》という恥ずかしくなるほどの熱情を、その熱を一切逃さない正攻法のロックサウンドで畳みかける、これほどまでに潔い曲は昨今そう多くない。“無責任な肯定を”に出会えて、ロックを好きでいる人生でよかったと心から嬉しくなった。
誤解のないように説明を尽くし、正しさを提示することが求められる今の時代において、理由も根拠もなく感情を丸ごと肯定することは、本来とても無責任で、危うい行為でもある。だが、その「無責任さ」を引き受けたまま大衆の前に立ち、音に乗せて差し出すという表現ができる唯一の存在がロックバンドなのだと思う。Cloudyの歌には、聴く者すべてに根拠なく「ここにいていいんだ」と思わせる説得力があった。近年チャートからはロックが減ってきてしまっているが、彼らは「なぜロックが必要なのか」という問いに真正面から答える力を持ったバンドだと確信している。再始動したロッキング・オンのオーディションプロジェクト「RO JACK」で彼らを初代王者に選んだのも、そんなバンドをシーンのど真ん中に送り出したかったからにほかならない。
今回は、その言葉を紡ぎ出すフロントマンの小柴タケトに単独インタビューを行った。発言の一つひとつからも、彼が、そしてCloudyが、ロックの時代を呼び戻す存在であると強く感じさせられた。
インタビュー=有本早季 撮影=横山マサト
(『ROCKIN'ON JAPAN』2026年3月号より抜粋)
──昨年12月に「RO JACK」の優勝特典として“無責任な肯定を”をリリースしました。ロックバンドの存在意義を見事なまでにまっすぐ表現した、いつまでも歌い続けていける曲だと感じています。実際にライブで演奏するようになってから、曲の捉え方や気持ちに変化はありましたか?
この歌は恥ずかしいくらいに自分の気持ちをさらけ出していて、言葉で愛情を伝えるのが気恥ずかしくなってしまう僕にとっては、これ以上ないくらいに僕の本音を歌ってる曲だと思います。リリースしてからお客さんの反応を見て、すごい正面から投げたものを、そのまま正面から受け取ってくれているなと感じてます。歌詞のようなことをMCで言うと照れますけど、面白いもので、歌にするとまったく恥ずかしいと思わないんですよね。たぶんCloudyを知れば知るほど好きになってくれる曲だと思う。今後僕らが大きくなればなるほどこの曲が持つ意味は大きくなっていく気がします。
──《君は間違っていないよ》という歌詞はストレートな肯定のメッセージですが、自分自身が言われたい言葉でもありますか?
言われたい言葉のくせに、正面から受け取れないという、曲がった部分が自分にはあるので。もしこれが『君を肯定する』みたいなタイトルだったら、『いや別に俺のこと知らないっしょ』とか思っちゃうんですけど。僕にとってはこの《無責任》って言葉が嬉しいんですよね。自分がリスナーとして感動できるかどうかは、この曲に限らずすごく意識しています。
──前回の取材でも、子どもの頃から捻くれた性格だとおっしゃってましたね。
僕は(ザ・)ブルーハーツがきっかけでバンドというものを好きになったんですけど。僕が生まれる前にとっくに解散してて、周りの同級生は誰も聴いてなかったのに、13歳の僕には刺さったっていう時点で、ちょっと屈折してますよね。
──ロックやパンクが自分に刺さったのはどうしてだったと思いますか?
小学生の頃は無邪気そのものだった気がするけど、13歳ぐらいから、別に具体的な悩みがあるわけではないけど、なんとなくモヤモヤがあって──たぶんそれが思春期なんだと思うんですけど、僕はそれが人一倍あったような気がします。そういう時にブルーハーツのライブ映像を観たりしていました。強烈にオタクでしたね。解散して何十年経っても未だに語り継がれているだけあって、思春期にも刺さったし、今聴いてもやっぱりいい曲だなって思う。パンクではあるけど、ただの1ジャンルに収まらない彼らの偉大さを、この歳になって感じてます。恐ろしいほどシンプルですからね。コード弾いて、8ビートで、みたいな。でも唯一無二ですよね。
──ストレートな音と言葉で誰かを救おうとするCloudyのアティテュードは、まさにブルーハーツの系譜にあるものだし、“無責任な肯定を”にはその魂が宿っていると感じます。
最初の数秒ですべてのコンテンツが判断される今の世の中、ストレートなものが伝わりにくくなってる気がする。だからこそ編曲やライブをするうえでちゃんと頭を使って、根本のまっすぐなものを伝えるようにしようって、最近はすごく意識してます。
──誤解を生まないようにどんどん言葉を尽くしていく時代にあって、歌詞を書くうえで窮屈に思うことや難しいと感じる場面はありますか?
SNSは何かを批判したり揚げ足を取ったり、否定的なものが目立つと思う。自分の人生がうまくいかない時に、うまくいってるように見える人をひがんじゃう気持ちは誰しもあるので、わからないでもないですけど。でも、そんなことしても自分の人生は面白くならないので、そういう流れには反発したい。そもそもロックには、主流に反発するみたいな意味もあると思うので。
──冒頭の《SNSを開いても嫌いなものばかり目に入り》という歌詞で、まさにそういうことを歌っていますよね。
そういうものを部屋で目にして、なんか嫌だなと思って書き出した曲なので。まあ、平和に生きたいですよね。
──そういった現状への反発を歌ってくれるロックバンドが、これからの時代は求められるようになる予感がします。
確かに、ブルーハーツもそうですけど、みんなが内心思ってるけど言えないモヤモヤを代わりに叫んでくれるのがロックだという気がするので。今の時代にそういうことを叫ぶ曲を作るのも面白いなって思いますね。
──ライブのMCでは「生涯で自分が書いたラブソングはこの曲と“曇り空の下より”の2曲」だとおっしゃっていましたが、本当にいい曲なのでぜひ書き続けてほしいです!
今後、作る可能性は大いにあるなと、言いながら思ってましたけどね(笑)。これまでは2曲ってだけで、作りたくなったら作っちゃうと思います。
──ロックファンはみんなこういう曲を心待ちにしてますから。そして1月には、3ヶ月連続リリースの第1弾として“サミダレ”を発表しました。天気がモチーフになっていますが、天気に自分の感情を左右されたり、創作の種になるものが見つかったりすることは多いんですか?
僕は何かを作るうえで、風景とかにすごく影響を受けるタチだなと最近思ってます。というのは、作詞する時に散歩することが多くて。行き先も決めずに歩いて、たまたま見た景色にも感動できるんですよ。この曲を作り出したのは6月とか、雨の時期。散歩が趣味なので雨は嫌いなんですけど(笑)。でも、雨音が美しかったり、草木を濡らしてるのが幻想的に見えたりする。嫌だけど、どこか嫌になりきれない。それも含めて面白がってる。で、雨もいつかは止む。それが日常生活に似てるなと思って作ったのがこの曲ですね。
──以前のインタビューで、両極端なものを混ぜるのがCloudyとおっしゃっていましたが、景色を見る時でさえ、一面的に捉えることはないんですね。
そういう意味では確かにCloudyというバンド名は、めっちゃ意識してつけたわけではないですけど、意外と僕の根幹なのかも。“無責任な肯定を”も、一般的には冷たい印象の『無責任』と、温かい『肯定』、対極の言葉の組み合わせだし、“サミダレ”も、嫌であり嬉しくもあるっていう歌詞だし。
──《ウザってえなって思う/この日々を愛している》はまさにそうですね。こういう歌詞を書く自分を客観的に見ると、自分らしいと思うのか、自分って面倒くさいなと思うのか、どういう感覚ですか?
それもまた両方なんですよね。こんなことを言っちゃう自分が嫌であり、それも含めいいと思ってる、みたいな。ここでもまた捻くれた部分が出てますね。結局どこまで行ってもリスナーとしての面がいちばん大きくて、いちリスナーとしてこういうバンドにこういう曲を歌ってほしいなってことを、今までもずっとやってきているんです。たぶん僕がこの曲をきっかけにCloudyってバンドを知ったら、信頼できることを書くやつだなって思うはずです。
──Bメロの歌詞はかなり特徴的ですよね。《労働や税を筆頭に〜》のところなんて、普通なら歌詞に使わないような言葉じゃないですか。
確かに、《税》ってあんまり出てこないですよね(笑)。ここは語呂の良さを意識して作りました。作詞の時に最初に《労働や税》が浮かんできちゃったから。あとからいろいろ考えても、最初に浮かんだ言葉を超えることはできないと思ってます。
──そのあとの《1の呼吸にかけ過ぎじゃありゃしないかい》につながっていくところも、すごく小柴くんらしい言い回しだなと思います。
《音楽や君を筆頭に輝きうるもの》っていう前向きなことを言うためには、1回否定が必要でしたね。でもその相反する感情もすごく美しいなと思うし。ここでも雨の憂鬱さと美しさっていう根本のテーマに沿うことができたのは嬉しいです。
──この歌詞にあるような、生活していてなんとなく息苦しい感じとか、目まぐるしく日々が過ぎてく切迫感みたいなものは、感じやすいタイプですか?
これも何回も言っちゃいますけど、100%幸せな時もないし、100%不幸な時もない。だから僕は、なんかしら希望がありつつ嫌なことも常にあるっていうのが人間だと思ってるので。それはこの曲に限らず、両方を包み隠さず歌いたいなと常々思っています。
──《不幸ぶりたいのさ僕等/住む場所や食う飯があろうとも/時代や他者のせいにして自己の/粗末を誤魔化している》は、聴いていて耳が痛い人が多いのではないかと思います。
それを否定したいわけでもないんですけどね。だからこのあとに、『そんなんじゃいけないよ』とかは絶対書きたくなかった。僕自身もそうだし、たぶんみんなもそうだろうなって。悲劇のヒーローぶりたいのかな。