Kanye West『Runaway』を観て

Kanye West『Runaway』を観て

巨大な赤い隕石、大破する車、羊、打ち上げられる無数の花火、パレード、マイケル・ジャクソンの頭部、晩餐、黒いチュチュのバレリーナたち、そして、空から降ってきたフェニックス。

ただのひとつも息継ぎを許さない緊張感をもって34分間を紡いでいたKanye West監督作『Runaway』。ニュー・アルバム『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』からの楽曲をふんだんに散りばめながら、それは壮大な叙事詩でありながら、どこまでもKanye一個人の思いが描かれていた。そう、それはまさに「ぼくの美しくも暗い、とてもひねくれたファンタジー」だった。

この夏、プラハで撮影されたというこの短編映画。Selita Ebanks演じたフェニックスがいったい何を象徴していたのか。それは、簡単に言ってしまうと、Kanye自身の「尊厳」のようなものである。あるいは、ピュアネスと言い換えてもいいかもしれない。それは、ヒップホップ・アーティストなら必然的に持つ、自身を突き動かすもの、力学の源泉である。畢竟、すべてのヒップホップ・アーティストは、自身の作品と自身を切り離すことができないし、というか、そもそも作品とは自身の「尊厳」の表出であって、それが世界に認められるということがすなわち彼らのアイデンティティの確立となるのである。

しかし、より優れたヒップホップ・アーティスト、あるいはここではあえてブラック・ミュージシャンと呼んだほうがいいかもしれないが、彼らが優れていればいるほど、その「経てきた歴史」に行き着く。彼ら個人の尊厳は、したがって常に、黒人の尊厳と同化していくことを避けられない。その意味で、ヒップホップは、逆説的に「もっとも黒人の尊厳をダイレクトに表出しうる」表現方法でもあった。

そのような背景を踏まえて、ここに登場させられている「フェニックス」を注視すること。この美しくも無垢で傷つきやすく(けれど、誰の干渉も受けない)ようなものとしてそれが描かれていること。それが、Kanye Westによる、Kanye West自身の尊厳の在り様であり、Kanye Westが思い描くブラックの尊厳の在り様なのだ。

しかし、ここで重要なのは、そういうことではない。そのようなフェニックスが、どこかへ行ってしまう、ということである。

物語の終盤、フェニックスとKanyeの間で交わされる会話。ずっとここにいてほしいと願うKanyeに、フェニックスは「いや、自分は燃え尽きなければならないの」と拒む。このくだりの意味するものはあまりに大きい。このどこまでも見つめていたくなる深度。この瞬間、現在のKanye Westがいったいどのようなパースペクティヴを表現者として持ちえているかに震えるのである。そして、一方のロックという表現においては、究極のその目的が「自分が自分から解放されること」であることを想起するとき、その震えは倍加していく。



まったくの余談だけど、映像中、Kanyeがアップライト・ピアノを単音で叩きながら演奏するタイトル・トラック「Runaway」が、すごくAtoms For Peaceに聴こえた。
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