ホワイト・ストライプス解散によせて

ホワイト・ストライプス解散によせて

昨年リリースされたホワイト・ストライプス『アンダー・ザ・グレイト・ホワイト・ノーザン・ライツ』によせて、こんなようなブログを書いた(「ストラプスの正体」。こちら。http://ro69.jp/blog/miyazaki/31392)。以下、全文コピペ。

ホワイト・ストライプスのライブ・アルバム&ドキュメンタリー『アンダー・グレイト・ホワイト・ノーザン・ライツ』。
そのドキュメンタリーを観る。

2007年夏、風変わりなカナダ横断ツアーを敢行したバンドに密着したこの映像は、
ブルーズにその根源をもつロック・ミュージックの、
その宿命と、存在理由をびっくりするほどあっけなく、ごろりと目の前に転がしてみせた作品だった。
宿命ということはつまり、この音楽が旅を力学にしているということで、
ストライプスは、このツアーを通常のホール・ツアーに加えて、
無料の日中ミニ・ライブであったり、たった一音のライブであったり、あるいは先住民族の集まる午後の公民館みたいなところで老人たちと歌ったりといったことを重ねながら移動していく。
そこでは、その土地土地の、まさにブルーズを拾いながら、自らのブルーズに足していく、そんな光景が映し出されていく。
いうまでもなく、それが「伝承」の音楽、ブルーズだった。
この21世紀のバンドは、そんないまでは誰もやろうとしてもできないことを、愚直に繰り返していく。その様は、あらためてホワイト・ストライプスというバンドの特異性を顕著にすると同時に、
ブルーズ、ひいてはロック・ミュージックの、気の遠くなるような歴史と数え切れない思いといった背景を猛烈に想起させるのだ。
そして、そんな音楽が何ゆえ必要とされるのか。その存在理由が突如として明示される瞬間については、
これは実際に観ていただくほうがいいに決まっている。

というか、ロックに何がしか撃たれた人すべてに、どうか観てほしいと切望する。

これが、ホワイト・ストライプスの正体だった。
そしてそれは、ロックの正体だった。

凄まじい音楽だ、ロックって。



なんか、奥歯にモノがはさまったような言い回しになっているのは、「存在理由が突如として明示される瞬間」について書いていないからで、それは、これから観るひともいるだろうから、だった。

でも、もういいと思う。その「瞬間」は、映像の最後の方、部屋にジャックとメグのふたりがいるシーンのことだ。ジャックはそこで、ピアノを弾き、歌う。横にいるメグはそれを聴きながら、いつのまにか泣いているというシーンだ。

それがなぜ「ストライプスの正体」なのか。それがなぜ「ロックの正体」なのか。

結果的にふたりの最後のプロダクトとなった本作品は、最後のツアーのドキュメンタリーだった。上記にあるように、それは、通常のライブ・ツアーというよりは、「旅」であることを強く意図したものだった。「旅」ということは、つまり、「出会う」ということである。そこに「誰か」がいるということに向けたものである。実際、ふたりはこのツアーで、単にステージとアリーナという出会いのみならず、突然通りに現れたり、老人たちに会いに行ったり、さまざまなやり方で「誰か」に会いに行く。

それが、ロックだからである。「伝承」をその根本力学におくブルーズのやり方を下敷きにしながら、ホワイト・ストライプスは、そのように、音楽を旅させていた。なぜなら、その音楽、ロック・ミュージックもまた、誰かと出会い、伝え、継がれていくものだからだ。

そして重要なのは、そのようなダイナミクスが、それ自体として、「誰か」を「救う」からである。

救われるのは、もちろん、それを伝えられた「誰か」であり、それを伝えようとした自分という「誰か」でもあるだろう。しかし、それはいつも、「他者」として、この自分と空間を隔てる「誰か」である。その空間を、音楽は埋め、つなげていく。

だからそれは、何度も言うように「旅」でなければならなかったし、その最後には「誰か」、つまり、メグ・ホワイトという具体的な一個の実体であり、同時にすべての「誰か」を象徴するような「誰か」に届けられなければならなかったのである。

演奏が終わると、ふたりは身体を寄せ合う。それは、たった今この空間を埋めた音楽に対する、ふたりなりの敬虔な振る舞いである。だからそれは、メグだけでなく、ジャックもまた、救われたということである。

ジャックはギターを持っていず、メグもドラム・セットに座ってはいないシーンではある。しかし、あの怒涛のエモーションが放たれる彼らのステージで行われていたのは、いつだって、このシーンと同様、そういうことだった。無論、そこでは、われわれオーディエンスも救われていた。

ホワイト・ストライプスがなぜ21世紀に登場しながら、ロックの根源的原理と常に語られてきたのかは、そんな大元のロジックだけを、バンドの存在理由としてきたからである。だから、結果として、ストライプスは、ロックが誕生したと同時に「発見」された、「この音楽は、どこか遠くにいる誰かのために鳴らされるものである」という論理そのままに、凄まじいまでにシンプルでだからこそそれだけで圧倒的であるような音を鳴らすことができたのである。

誰もが思っていたように、けれど、ホワイト・ストライプスは解散した。ふたりは最後にこうコメントした。「ホワイト・ストライプスは、もうメグとジャックのものではありません。ホワイト・ストライプスは、これからはみなさんのものなのです。だから、これからは、みなさんの好きなようにしてください」。

ホワイト・ストライプスはこうして、「誰か」というわれわれに渡された。というか、そもそもふたりにとっても、端から自分たちのものでもなかったはずだ。そして、ふたりは、偉大なる白き北の光の下に眠った。
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