いつからだろう、ロックンロールがその当事者の本質的な資質と合致をみないかぎりは、真贋の法廷に連行されるようになったのは。ロックンロールをやる人間は、生き方をすでにロックンロールとしていなければならない。そんな選民主義といおうか、求道主義といおうか、ともかく、ロックンロールは選ばれた、あるいはそれを追い求める者にのみ許された特権となっていた。その音楽がたとえ陳腐なロックンロールだったとしても。
ザ・ストロークスは、そんなことは全くどうでもいいという軽さを持って、まさに軽々と易々と、極上のロックンロールをやった、初めてのバンドだった。ロックンロールのいいとこどりを、誰に気兼ねすることもなく、今日の服を選ぶように羽織り、袖を通し、それがスタイルであるからこそスタイリッシュにやってのけたのである。
そんな、一見すると教条主義者の神経を逆撫でするような行為。しかし、それこそが、アークティック・モンキーズのアレックス・ターナーをして、ザ・ストロークスの登場は僕らを解放したと言わしめた、まさに市井の人民に向けたロックンロールの解放だったのである。
というか、そもそもロックンロールはもっとずっといい加減で、ろくでもないものだったんだと思う。いや、でなければ、こんなにも吹き抜ける風のように軽やかに、わたしたちの間を駆け抜けていかなかったはずなのだ。
今夜の超かっちょよいザ・ストロークスを観ていて、そう思った。(宮嵜広司)