ライブのオマケのはずなのに、途中のムービーや企画モノに最近やたらと心を動かされるということについて

 ちょっと前の話になりますが、宇多田ヒカルの8年ぶりの復活ツアーは本当に素晴らしいものでした。
活動休止後の新しい曲がどれも中身が深くて質が高くて素晴らしいというのもあるし、過去のヒット曲やアルバム中の名曲をアレンジし直していてそのセンスとスキルがまた素晴らしいというのもあるし、ヒッキー自身は変わらないキャラで相変わらずのヒッキーらしさ全開ぶりが素敵だったというのもあるし、もう横浜アリーナからの帰り道、新横浜で電車に乗らずに菊名の駅まで歩いて帰ったぐらい満足度の高いものでした。

そして、ライブそのものではないのですが、ライブの途中でスクリーンに上映されたショート・ムービー(?)が、もうライブのオマケ企画とは言えないぐらいの完成度と破壊力があるコンテンツで、これもまた最高でした。
又吉直樹と宇多田ヒカルの対談番組という設定で、途中から宇多田が瓶で又吉の頭を計4回も殴りつけるという、サブカル魂でメインストリームを引っ張っていた90年代のお笑いコントを思わせる秀逸な脚本(もちろん又吉作)で、宇多田も又吉も本気の体当たり演技で、観ている間はライブに来ていることを完全に忘れてしまうぐらいの完成度でした。
昔だったら、いかにヒッキーといえどもこれはやらなかったんじゃないかと思います。
今という時代に対する宇多田ヒカルの正確な感性、エンタテインメントに対する宇多田ヒカルの攻めの姿勢を強く感じさせるものでした。
 
星野源のアリーナ・ライブでも、バラエティー的な映像コンテンツを途中で流すのが半恒例になっています。
各界著名人/有名タレントからの応援コメントという設定で、星野源らしいクセのあるセレクトでオファーされた各タレントがアドリブを効かせながら笑わせてくれます。
こういう企画はこれまでもよくありました。
アーティストがビッグになって大きなステージを踏むときに、友人のアーティストやタレントからお祝いコメントをもらってそれをMCの流れでスクリーンに映す……でも星野源がやっていることはそれとは本質的に違います。
独立したコンテンツとしてしっかりと作られているのです。

米津玄師のアリーナ・ツアーでは、本人が立つステージそのものが大きく上下に動き、曲ごとにコンセプトを定めた映像が巨大なLEDビジョンに展開し、十数名のダンサー、そしてドラムパフォーマンス集団が洗練されたパフォーマンスを見せ、”Lemon”のときにはレモンの香りが会場に漂うという、これまでのライブの定形をリ・デザインするような斬新なものでした。
 
あいみょんは初の武道館公演で、本編の前半と後半の間に休憩をはさみ、そこで中学時代からの友人○○ちゃんとのトークをラジオ番組のスタイルで約20分間流していました。これもライブにおける新たな形のコンテンツだったと思います。
 

少し前まで、ロックやポップ系アーティストのライブは歌と演奏、せいぜいダンスぐらいで、演出もレーザーやスモーク、紙吹雪、時おりスクリーンにイメージ映像、ぐらいのものでした。
客席にサブステージを作ってアーティストがそこで演奏することに大騒ぎしたのはつい最近のことです。
今やそんなのは当たり前ですよね。

今、欧米のアーティストやK-POP、日本でもアイドルや2.5次元などあらゆる「ライブ・エンタテインメント」において、歌や踊り以外の演出や企画は主力コンテンツです。
それに比べれば、日本のロック/ポップ系のライブのあり方は旧態依然としています。
でもそんな中、宇多田ヒカルや星野源や米津玄師、あいみょんといった、今の時代の表現のあり方に自覚的なアーティスト(SEKAI NO OWARIが偉大なる先駆者であることも忘れてはなりません)    は、新しい形を探しながらトライしています。
ロック/ポップをもっとわくわくする方へ進めようとしています。

又吉の頭を瓶でぶん殴る宇多田ヒカルを観て、僕は心を揺さぶられたのでした。(山崎洋一郎)


ロッキング・オン・ジャパン最新号『激刊!山崎』より
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