奥田民生との25年について書きました(発売中のJAPAN今月号「激刊!山崎」より)

奥田民生との25年について書きました(発売中のJAPAN今月号「激刊!山崎」より)
 奥田民生に初めてインタヴューしたのは1988年、つまり今から25年前になる。民生くんは23歳で僕は26歳。ユニコーンがセカンド・アルバム『PANIC ATTACK』をリリースした時だった。ページ数は2ページ。「あれ?JAPANはデビューの時からユニコーンを推してたんじゃないの?」という違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれないが、ユニコーンに関しては僕ら、かなり出遅れていました。当時、女子高校生たちからアイドル的な人気もあったユニコーンは『パチパチ』というミーハー寄りの音楽誌がメインで推していて、JAPANは完全に見逃してしまってセカンドでようやく初インタヴューをやらせてもらうという間抜けぶりだった。まあそういうこともあるのである。
 そんなわけだから、最初のインタヴューで初めて民生くんに会った時はおたがい警戒している感じでおよそ意気投合して盛り上がったという感じではなかった。バンドブームで一括りにされている状況をどう思いますか、というような質問に民生は「それぞれバンド自体は個性的でいいと思うけど、曲を僕が書けばもっと良くなるんじゃない?」みたいなことを答えて、その自信に感心したのを憶えている。もしかすると、硬派音楽誌を掲げていたJAPAN向けに、ちょっと牙のあるところを見せてリップサービスしてくれたのかもしれない。そんな感じだった。
 もうひとつ強く印象に残っているのは、ステージでも写真でもいつも表情を作っていて服もこざっぱりスタイリングされたイメージだったのに、インタヴューに現れた民生はニット帽をかぶってだらんとしていて顔立ちはかわいいのに目が冷めている、およそ23歳のロック界のアイドルとは思えない「すれた」印象だったことだ。人気に浮かれるでもなく、希望に燃えるでもなく、「いろんなことを済ませて東京に出てきて、今もいろんなことを済ませている最中なんだ」というような、冷めた感じ、面倒くさそうな感じを漂わせていた。大物感があったのだ。
 その後、ユニコーンが解散するまで、僕は何度もインタヴューしたりツアーに密着してレポート記事を書いたりしたが、あんまり彼らとの距離が縮まったような実感はなかった。たぶん、取材現場にいたスタッフも、記事を読んだ読者も、もしかするとメンバーもそんなことは少しも感じていなかったのかもしれないが、僕はなんとなく彼らに近づけていないような気がしていた。今考えると、おそらく僕自身が、民生が何をやろうとしているのか掴めていなかったからだと思う。ユニコーンというバンドの存在理由や向かう行き先が見えていなかったのだと思う。だから作品ごとのインタヴューはできても、核心をついたり夢を語り合ったりすることはユニコーン時代にはできなかった。ユニコーンが解散を発表したラジオ番組の生放送が終わった直後に、その現場にいた僕に民生は「次はちゃんとやりますよ」と言って笑っていたが、その時の僕にはその意味も半分しかわからなかった。
 初めて民生に近づけた気がしたのはソロになってからである。『29』で民生がソロ・デビューした時、JAPANは史上初の2ヶ月連続表紙巻頭で徹底的に奥田民生に迫った。そこで初めて僕は奥田民生というアーティストを捉えることができた。
 奥田民生は失っていた。そして、ソロ活動を通してその失ったものを掴もうとしていた。それは「バンド」だった。その姿が見えた。その物語が見えた。そこから、僕はユニコーン時代よりも近い距離で民生にインタビューできるようになった。
 それにしても、バンドを失ってソロになってから「バンド」を追い求めるというのは不思議な物語である。そう、奥田民生の物語は不思議なのである。だから面白いのである。だから味わい深いのである。他のソロ・アーティストと何かが違うのである。実は複雑なのである。だから目が離せないのである。
 奥田民生にとってバンドとは、追い求めるものである。永遠に、かどうかはわからないが、少なくともソロになってから19年の間、奥田民生は「バンドを追い求める」という物語を通して「ソロ奥田民生」というものを確立してきた。ほら、複雑でしょ?
だから、僕は今作『O.T.Come Home』はやはり最高傑作だと思う。奥田民生が「追い求めていたバンド」は自分自身の中にあるということを自覚した作品だからだ。
奥田民生との25年について書きました(発売中のJAPAN今月号「激刊!山崎」より)
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