いまもっとも多忙で、野心的なエレクトロニック・ミュージックのプロデューサーのひとりであるダニエル・ロパティン。
彼のワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(以下OPN)としての新作『マジック・ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー』(以下『MOPN』)は、ラジオ局の名前をもじったというOPNの原初的なコンセプトに立ち返りつつ、前作『エイジ・オブ』からさらに大胆に、彼流の「ポップ」を切り拓かんとする多面的な魅力を持った作品だ。そしてその「ポップ」は、どこかグロテスクでもある。この世界を歪ませながら「反射」するように……。
パンデミック下の内省から生まれたという『MOPN』については『rockin’ on』12月号のインタビューで語られているのでぜひ読んでいただきたいが、ここでは本誌に掲載しきれなかった話を紹介したい。OPNが持つ思想、『MOPN』に収録されたザ・ウィークエンド参加曲の裏話、パンデミック下で考えたことなど、このひとはいつだって饒舌に、音楽を巡るスリリングな思考実験を語ってくれる。
(文・質問作成:木津毅 通訳:坂本麻里子)
◎OPNにおけるコンセプトとパーソナリティの関係
●『MOPN』がコンセプチュアルな作品となったのは、映画『アンカット・ダイヤモンド』のサウンドトラックをダニエル・ロパティン名義で出したことと関係ありますか? というのは、OPNはむしろ非パーソナルな作品向けのアウトレットになるのでは? と考えたからなのですが。
「今回は違うね。でも、自分からすれば毎回そうなんだと思う――だから、自分がコンセプト(概念)を避けるのは無理だ、と。コンセプトが好きすぎるし、とにかく何もかもを概念として捉えている人間だから、レコードを作るときもコンセプトは避けようがないんだ。ある種のコンセプチュアルな背骨みたいなものが一本通っていない、そういうレコードを自分が作る日が訪れるという図は想像しにくいな。
作品をひとつの環境のように感じられるものにしたいし、僕には自分なりの視点や見解がある。たとえ抽象的なものであっても、僕はやっぱりそこに何らかの視点が備わっているべきだと信じているし、仮にその視点が変化するとしても、作品はどこかにちゃんと据えられているっていう感覚を自分はとにかく持ちたい。
というわけで……たとえ(今作の「原点回帰」のように)後戻りしてみても、やっぱりそこですぐにコンセプトについて語り始めてしまう、と。けれども、必ずしもそうじゃないんだよ――だから僕からすれば、コンセプチュアルな作品だからといって非パーソナルだとは限らない、と。それはとにかく……っていうか、それが僕自身のパーソナリティなんだと思う。そうだね、ここには自分のパーソナリティが存在している、このレコードについて思うのはそれだ。
それにもうひとつ……どうなんだろう? この作品はとにかく多くの意味で、自分の作品のなかでももっともシンプルでまっすぐなものとして自分の耳に響く、ってところもあって。コンセプチュアル面に関してすらそうなんだよ。だから、僕たちはこのアルバムのラジオというコンセプトについてあれこれ語り合っているわけだけど、それですら――それですら、僕にとってはこの作品を実際に聴く体験、それそのものほど重要とは感じない。というのも、僕からすればこれはストレートな音楽作品集、みたいなものだから」
●本名のダニエル・ロパティン名義の作品とOPN名義で出す作品との間にはあまり差がない、等しいものだ、ということでしょうか。
「ああ、そこね。うん、差はない……ダニエル・ロパティン名義というのは……いやだから、映画音楽を担当する場合って、実に多くの人間が関わっているし、こちらに対する彼らの要求も本当に多様であって」
●たしかに。
「でしょ? で、そういう地点に達すると、とにかく『いまの自分はいくつもの様々な声に奉仕し、働く立場にいる』みたいに感じるし、ある意味こう……別物だ、という風に思える。対して、OPNこそ僕ひとりで決断を下していける自由が自分にある名義だ、一種そう捉えている」
●やりたいようにやれる場、と。
「うん、まあそういうこと。でも、我ながらすごく笑えるよなぁといつも思ってるけどね、自分にとってのバンド名みたいなものに当たる別名(OPN)の方を、親からもらって生まれ育った本名よりも優越させているんだなと思うと(苦笑)」
◎ザ・ウィークエンドとのコラボレーションについて
「エイべル(・マッコネン・テスファイ/ザ・ウィークエンドの本名)との場合、彼はとても――なんというか、スターなのに、非常に反比例的にプロダクションの側に興味のあるひとでね。彼のプロダクションに対する好奇心は相当なものだし、そのせいで彼は僕のやっていることに惹きつけられたんだと思う。いまでも覚えているよ、僕たちふたりがはじめていっしょにスタジオに入ったとき、あの場で(『MOPN』収録の)“No Nightmares”を書いたんだ」
●そうだったんですか!
「うん。あれはいまから2年前だね」
●なんと。そんなに古いとは。
「(笑)そうなんだ。もともとあれは、エレクトリック・レディ・スタジオでふたりでデモってみた音楽ピースなんだけど、そこから先に発展しなかったもので。それでも、ふたりでしょっちゅう話していたんだけどね。ことあるごとに話題にのぼって、『あの曲、あれはどうすべきかな? どうすればいいだろう?』って(笑)。
どうなったかと言うと、あるときエイブルが言ってきたんだ。『あのさー、あれ、とにかくお前が仕上げなよ。お前があれをOPNの曲にするべきだ』って。で、僕も『OK、分かった』と。そうやっていったんあの曲がメニューから外されたところで――というのも、あれは本来彼の作品のために書いた曲だったし、どこで使えばいいか、彼もその処遇を考えつこうとしていたんだよ。
で、ある時点で彼がこのアルバムに共同総合プロデューサーとして参加することになり、そこで『“No Nightmares”をOPNの歌としてお前が仕上げれば?』と提案してきたわけ。自分ではそんな風に考えたことすらなかったし、一種の奇妙な挑戦のように思えてね。その時点ですら、あれをOPNの歌に作り変えるのには苦戦したんだよ、非常に性質の異なる曲だったから。
ところが、彼にせきたてられたんだよな――もっと、もっと、と強く背中を押された。自分としては『よし、これで仕上がった』と思っても、毎回彼の方から『いや、まだザ・ウィークエンドの曲に聞こえる』ってダメ出しされて(苦笑)。だからこっちも『ああ、そう? 分かった、もっとやる』みたいな。
あそこで彼が言わんとしていたのは『もっとクレイジーにやれ、お前の思った通り好き放題にやれよ』みたいなことだったんだよね、『これは完全にお前だけの音楽なんだから、俺のことは完全に忘れてやりたいようにやれ』と。そんなわけで、ある時点ではすさまじく突飛で奇妙なあの曲のバージョンも存在したんだけど、さすがにあれはヘン過ぎたし、原曲からあまりにかけ離れていて、我ながらちょっとショックを受けてしまって(苦笑)。
というわけで最終的に、その中間点で折り合ったっていうか。ふたりであの曲を始めた際の胚芽部もちゃんと含んでいるし、そうでありつつ『OPNの音楽』がやるべきこともすべてこなしている曲、みたいな。だから奇妙な過程を経たけれども、すごくこう、ひとつにまとまり統合されたものという感覚がある曲だね、うん」
●その“No Nightmares”は、『MOPN』のトータルなコンセプトにどうフィットしたんでしょう? 2年前に書いた曲ということですが、『MOPN』というアルバムに合うようにかなり変えた、ということですか?
「まあ、そうする必要はなかったんだよ。というのも、僕のラジオ局でああいう1970年代調の(笑)悲しいバラードが流れるのは、ごくごく当然の話であって。あの曲はほんと、自分の耳には10ccっぽい、70年代的なソフト・ロックのバラードって風に響くけど、と同時にすごくサイケデリックなひねりも加えてあって。
だからこのアルバムにはどんぴしゃだったし……ただ、自分としてはものすごく、こう……まあ、あの曲のオリジナルのデモを聴かない状態で違いを説明するのは難しいんだけどね。というのも、かなり変化してきたしずいぶん違うから。ただ、ひとつ言えるのは、僕自身はふたりで最初にやった原曲の状態を惜しんで、なかなか手放したがっていなかったっていう。
でも思うにエイブルが言い続けていたのは『あきらめろ!』で(笑)。とにかく完全に、お前のやりたいようにやれってことだったし――それこそ、『俺が存在しないつもりで、俺に気兼ねせずやりたいようにやれ』と。そう言われて僕も『なるほど。オーケイ、もちろんそうだよね!』って思ったし、即座にとことんやってみたっていう(笑)」
●エイブルはすごくエゴが少ない人っぽく思えますね。
「うん、そうだよ」
●前作『エイジ・オブ』でもその傾向はあったと思うのですが、『MOPN』のボーカルが入るトラックはメランコリックなメロディを持っていますね。どうしてでしょうか? ロックダウンと隔離生活のせいで内省的になっていたから?
「ふーむ。でも、僕はいつもこういう感じなんだよ。そうなるのは、ロシア系という自分のルーツも部分的に関わっているんじゃないかと思う。ロシア音楽は常に少々悲しげに響くものだ、というか。
だから、それを書いた人間やその音楽そのものの実際以上に悲しく聞こえるっていう。じつはかなりポジティブで楽しい曲なのに、それでも悲哀っぽく響くんだ。だからそれも一部にあるんだろうね、文化的に自分はそうなってしまう、という。
でも、正直、自分としてはこのレコードには(ポジティブな部分も)多いと思うけどなあ……まあ、たしかに作品の終わりにかけて重苦しいムードになってはいくよ。ただ、作品の大半、特にレコードの前半はとても……我ながら、自分があんなにハッピーそうに響くのを聴いたのははじめてじゃないかと思う。
それに、インストのいくつかにしても……“Tales From The Trash Stratum”や“The Whether Channel”のラストの部分、“No Nightmares”なんかはとても楽しい。“Long Road Home”はとてもポジティブだし、僕からすればオープンかつ興味深い響きのある曲だけどね。
どうなんだろう? ほんと、思い出せる限り、自分の他の作品よりももっとはるかに喜びの多い作品じゃないかと思ってるけどね――そうは言いつつ、僕の普段の気質を考えれば(苦笑)、はたして自分にどれだけの『喜び』を表せるかには、どうしたって限界があるんだけどさ!(笑)」
◎「フェイク」が持つ可能性
●「偽のラジオ局」というコンセプトやアートワークの偽広告によく表れていますが、OPNにおいては「フェイクであること」が重要な意味を持っているように感じます。実在しないもの、あなたの想像力から生まれたものと言ってもいいかもしれません。
「うん」
●あなたにとって、「フェイクであること」の意義や力はどんなところにあると思いますか?
「(興味深そうに)うんうん……僕は……だから、僕たちが作り出して自分たちの周りを取り囲ませているいろんなもの、あるいは僕たちを欺いていると思うフェイクなあれこれ、それらは僕たちの欲望を反映したものじゃないかと思うんだ。そうしたものは一種、僕たちが求めているのは何なのかといったことや、自分たちには理解できないかもしれない、アクセスできない何かについて考えさせてくれる方法を表現していると思う。
僕がフェイクなものが大好きなのは……そうだな……それが、(苦笑)僕は本当はどんな人間なのか、そこを(リアルなもの以上に)多く語っているからであって。要するに、フェイクなあれこれの映し出す影のなかに僕は自分自身を本当に見ることができる、と。この、いわゆる『リアルなもの』の映し出す影のなかに僕が見出すのは、ほかの誰かのリアルに過ぎない。
ただ、フェイクなものの反射を見ていると、僕はしばしば……自分のことを理解できるように感じるんだ。興味深いけどね、どうしてそう思うのか自分でも分からないから。ただ、僕はいつだってすごくこう、合成された模造っぽいものに惹きつけられてきたんだ」
●人工の作り物が好きだ、と。
「そう」
●人工的なものも誠実でリアルな何かになり得ると思いますか?――っていうか、この質問自体が矛盾してますね(苦笑)。
「いや、おもしろいよ。いままで話してきたことは要約したものというか……だから、それは哲学的な質問だってことだよね? となると僕たちもっと突っ込んで話さなくちゃならない。
まず、僕たちは自分たちにとっての人工(アーティフィシャル)とリアルとを定義するところから始めなくちゃならないだろうし、それは答えるのが難しい質問だよ。だから自分に答えられるとは思わないけど……それでも自分に言えるのは、僕にとって、あらゆるものはリアルの象徴である、ということだね。
だから、人工的なものにも明確な違いは感じないし、それが僕たち自身からそれほど乖離しているとも思わない。だから、それを別物だと感じるには、何らかの『正真正銘のリアル』なるものが存在するのを信じる必要があるわけで、でも僕はその存在を信じていない。とにかく思うのは、何もかもは一種の……だから、僕たちが世界を理解するメソッドや手段はごく限られているわけだよね。
自分たちの感覚器官は持っているけれども、それで何もかもの説明がつくわけじゃないだろう? だから間違いなく、生きているという状態には潜在意識の側面が伴うものだし、その領域を僕たちは本当の意味で分かり得ない。
だからシンセティックなまがいものはとても興味深いんだよ、それは象徴的な、リアルな何かの代わりを務める、僕たちが頭で想像するものだから。世界を理解するための方法として人造物はとてもパワフルなものじゃないかと思う。それは何かの象徴なわけだし、それらを通じて様々な価値を理解できるし、実に多くのいろんなことも理解できるっていう」
◎パンデミック下のインターネット
●パンデミックによって人間は否応なくインターネットへの依存度を上げたわけですが、このような状況を恐ろしく感じていますか? あるいは、心地よく感じていますか?
「僕にとっては……まあ、僕にはそもそもちょっとこう、隠者めいたところがあるわけで(苦笑)。だから、それほど苦には感じなかったというか、ほかの多くのひとたちが感じるほど、『日常生活のいくつかの面を奪われて苦痛だ』とは思わなかったんだ。
でも、そうは言いつつ、僕だって完全にその思いに悩まずに済むわけじゃないし、あのとき(パンデミックのロックダウン時)みたいに、この世界の一部になれない状態でいるのはどんなに悲惨かを自分なりに理解しようとしているよ。ところがその一方で、あの間に自分が発見したことのひとつに……隔離生活が始まった最初の頃は、僕も『何もかもをデジタルで体験する』っていうやつにすっかりのめり込んでいたっていうかな、というのも手元にはそれ以外になかったから。
でも、そのうちにデジタル体験にものすごく疲労させられるようになったし、それはあっという間に平坦なものになってね。だから……自分はそれとは別の何かを求めていたってことだし、聴く行為に回帰し始めたことで、目ではなく耳を使うことによって、自分は求めていたものを見つけたんだと思っていて。インターネットのじつに多くは、たとえ耳も使っているとしても、やはり圧倒的に目の力に依存しているわけでしょ(苦笑)?」
●たしかに非常に視覚重視なメディアです。
「うん。というわけで……まあ、カルチャーというのはこのパンデミック以前から、概して非常に強くビジュアルに依存してきたものだけどね。ただ、いまやそのカルチャーは僕たちをさらに自らの内面へと押しこむことになっているし、そのせいで僕たちはますますお互いから疎遠になり、かつ僕たちを自分自身の感性からも疎外することになっている気がする。
それは、とても悲しいことだと思うよ。でも、何かに耳を傾けリスニングすること、自分の耳だけを頼りにするのは、じつは非常に想像力に富んだことなんだな、と気づいたんだ。そのおかげで、とても苦々しい悪意の気分、閉じ込められて募る不満感からある意味解放してもらえた、という。というのも、あれは……たぶん僕には、サウンドを通じての方が、自分の目を使ってやるよりももっとずっとディープに想像力を働かせる傾向があるからじゃないかな」
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