サウンドアプローチもさらに豊かになり、前作から引き続き作曲・編曲を手がける加藤冴人やebaが描く音像は、緑仙の思い描くテーマをより解像度高く表現する。この作品にはもはや「VTuberの」という但し書きは不要。アーティスト・緑仙としての矜持と自信とが注ぎ込まれた決定的な一枚となった。この年末には初のCOUNTDOWN JAPANへの出演も決定しているが、緑仙は今、音楽という表現にどんな可能性を見出しているのだろう。今回のインタビューでは楽曲が生まれた背景から、アルバムの細部に滲む「人生論」までが語られ、緑仙というアーティストをより深く理解することができるだろう。
インタビュー=杉浦美恵
──前作『イタダキマスノススメ』から今作『ゴチソウサマノススメ』の2枚で「人生」を表現するという、このコンセプトは当初から念頭にあったものなんですか?自分の表現に対して自信がついてきていて、いろんなことにチャレンジしていこうという気持ちになっているんですよね。なんか今すごく幸せです(笑)
はい。最初から、ふたつ繋がった作品にして「食事と人生」というものをかけ合わせて表現するというコンセプトは決まっていたので、今「やっと全部出せたぜ!」っていう気持ちです(笑)。
──『イタダキマスノススメ』は緑仙さん自身、音楽活動に大きな手応えを感じた作品だったと思いますが、この『ゴチソウサマノススメ』ができたことによってさらに自信が深まったのではないでしょうか?
なんかもう、深まりすぎて(笑)。少し前まではVTuberが「本気で音楽をやる」ということもきっと理解してもらえなかっただろうし、自分がそれをやるということにも踏み切れなかったと思うんですけど、今回は完全に吹っ切れました。だから、歌詞以外にも挑戦しようと思えることがすごく増えていて、“猫の手を貸すよ”のMVで使うイラストも自分で描いてみようと思って、実は今必死に描いているところなんです。今、自分の表現に対して自信がついてきていて、いろんなことにチャレンジしていこうという気持ちになっているんですよね。自分の人生自体、「やるぞ!」っていう気持ちに満ちていて、なんか今すごく幸せです(笑)。
──素晴らしい(笑)。そのとてもポジティブなモードはどういうふうに緑仙さんの中で熟成されてきたんでしょう。
周りの環境が本当にありがたくて。VTuberとして活動するときには、どうしても同時接続数とか、数字的な部分に重きを置かなければならないこともあって、自分が面白いと思っているものでも「これは本当に面白いものなのか?」とわからなくなることもあるんです。でも「音楽をやる」という部分ではよくも悪くもそれを感じないんですよね。素直に自分がいいと思ったもの、自分だからこそ発信できるものに集中させてもらえる環境があって、そのおかげで素直に制作に取り組めているというのはあると思います。もちろんVTuberとしての活動も自分は大切にしているし、今両方経験できているというのがすごくありがたいですね。
──今回の作品を2作のミニアルバムに分けてリリースするというのは、どういう構想からでしたか? 前作は「食」を入口にして人生を語る作品になっていて、今回はそれをさらに普遍的なストーリーとして構築していますよね。初めからそういうコンセプトを決めて取りかかったんですか?音楽ならもっと多くの人を元気づけられるということに気づいて。それが近年、音楽を本当に好きになった理由のひとつなんです
最初から完全にコンセプトを決めて取りかかりました。自分がやることはすべてにおいてそうなんですけど、まずゴールを決めて、そこに向けて逆算して進めていきたいんです。それでいえば自分の中でのいちばん大きな最終ゴールというのは、ちょっと言葉が強いですけど、「死」なんですよね。この「死」っていうのは誰もがいつか絶対に迎えるもので、そこに向かってどういうふうに自分は過ごしていけるかというのが最重要なんです。だから、音楽的な目標とかVTuberとしての目標とか、小さいゴールはその時々でありますけど、いちばん大きなゴールは「死ぬこと」なんですよ。
──「死ぬときに見る走馬灯をめちゃくちゃかっこよくしたくて、日々生きている」という、緑仙さんの名言がありますよね。
はい。これがいちばん自分の本質的な部分であって、このメッセージを表現したいという思いで今回は制作に取りかかっていきました。その中で、これまでの自分は思ったことを言葉にするのがすごく苦手だったんだなということに気づいたんですよね。VTuberとしての僕は強い言葉を選びがちで、知らず傷つける人もいるし、逆にめちゃくちゃ元気づけている人もいる──そういう「0か100か」の話を自分はしがちなんですよ。でも、同じことを音楽に変換して出力してみると、傷つく人がすごく減る。なんなら意図せずとも「救われた」と言ってくれる人もいて。Vtuberとしては言葉で限定的な人しか元気づけることができなかったけど、音楽ならもっと多くの人を元気づけられるということに気づいて。それが近年、音楽を本当に好きになった理由のひとつなんです。なので、今まで雑談で話していた「強い言葉の人生論」を音楽に変換して、また広く伝わっていってくれたら嬉しいなって、今すごく感じています。
──本当にすごくいいアルバムができあがったと思います。まず1曲目の“カルカリナ”は、オルタナティブなロックサウンドとコーラスワークが美しい楽曲ですが、音楽のスケール感、物語性がすごく広がったと感じます。“カルカリナ”というのは「有孔虫」、いわゆる「星の砂」のことですが、このモチーフはどこから出てきたものですか?
『イタダキマス〜』から引き続きの『ゴチソウサマ〜』として、ここからは人生の後半戦というか、将来的なビジョンとか物事への感謝を全体に詰められたらいいなという気持ちがありました。なので、まずは自分の過去の思い出の中で、ずっと引っかかっているものを昇華していってあげたいという思いから、“カルカリナ”を作り始めて。幼少期の思い出──人生の中では嫌な思い出ほど覚えているものですけど、それが大人になってから救われたというか、ちょっと楽になれたという感覚が、その「星の砂」の思い出の中にあったんですよね。簡単に説明すると、幼少期に友達から夏休みのお土産で星の砂をもらったときに初めて劣等感というものを感じてしまったんです。「こんなきれいなものをもらってしまった」と。自分は家族旅行といえば祖父母の家がある県に遊びに行くくらいなのに、「この子は沖縄に行ったのか。すごくいいところに行ったんだな」と、初めて「負」の気持ち──黒い気持ちを抱いたんですよね。でも自分の親は喜ばせようと思って僕を祖父母の家に連れてってくれてるわけですから、子どもながらにそんなことは思っちゃいけないっていう気持ちもあって。そんな複雑な劣等感とその「きれいな星の砂」がずっと結びついていたんです。
──それがずっと記憶に残ってしまったんですね。
はい。でもあるときふと星の砂について調べたら「有孔虫の死骸の集まりでしかない」というのを知って。あの頃は、行ったことのない沖縄のとても貴重な砂だと思っていたものが、実はなんてことはないものだったとわかったら、小さな世界で頑張って生きていた自分がなんだか愛おしく感じられて。その感情をなんとか表現できないかというところから“カルカリナ”ができました。自分の負の感情を救ってあげられたというか、曲にできてよかったなと思いました。その思い出の星の砂は、東日本大震災のときに瓶が割れて、結局捨てることになっちゃったんですけどね。そうやって、地震で全部なくなってしまったっていう話も、いつかできればと思っています。
──続いて、“夜明けの詩”についてもお聞きしたいです。これは小説『宵を待つ月の物語』のテーマソングとして書かれた曲で、緑仙さんの歌声がいつになく深い抒情性を感じさせますね。メロディアスで、J-POPとして普遍性の強い曲になりました。
小説を読んだり漫画を読むことは好きなんですけど、物語作品のテーマソングを作るというのはいかんせん初めての経験だったので、自分の感情をどれぐらい入れていいものなのか、主人公の気持ちは本当にこれで合っているのか、作者の顎木あくみさんとミーティングさせていただいたりしながら制作を進めていきました。確かに今までとはまったく違う歌い方をしたという自覚があるので、そのチャレンジも含めすごく勉強になりましたね。『宵を待つ月の物語』を読んで感じたのは、恋愛は人間としての成長を加速させるものだということ。それはすごく不思議で、言葉で表すのは難しいと思うんですけど、それをこういう作品にできたことは、自分としてもすごくよかったなと思います。