『22ドリームス』は本当に素晴らしいアルバムだった。そしてポール・ウェラーが何か吹っ切れたように、新しいキャリアに踏み出したことを告げるような作品でもあった。00年代に入ってからの、例えば荘厳でウェルメイドな『ヒーリオセントリック』、或いはフォークとソウルの交点を求めるかのように様々な曲をカバーした『スタジオ150』。そうしたトライアルが、ひとつのコンセプトのもとに集約されて、「ポール・ウェラーのロック」として結実したのが『22ドリームス』だったように思う。新しいキャリアに踏み出している雰囲気はステージにも如実に顕われていて、まずツアー・ドラマーがあのスティーブ・ホワイトからスティーブ・ピルグリムに交代している。ライブ/レコーディング問わず、長きに渡ってウェラーと季節をともにしてきたS.ホワイトがいないのである。相変わらず健在なのは「泣き」のブルージーなプレイからゆらめく炎のようなサイケデリック・フレーズまでを奏でるオーシャン・カラー・シーンのギタリスト、スティーブ・クラドック。“ザ・チェンジングマン”や新曲なども絡めながら、前半戦は『22ドリームス』の楽曲をソリッドに、グルーヴィーに畳み掛けていった。ただしそれだけでは描ききれないのが『22ドリームス』の世界観だ。今度はウェラーがピアノを弾きながら歌う。シャンソンのカバー“レット・イット・ミー・ビー”、オーセンティックなタンゴ風の“ワン・ブライト・スター”、メロウ&ファンキーな“エンプティ・リング”。豊かな表現力に支えられたこの辺りの楽曲はドラマティックで、まるで映画音楽のようである。
更に、今回のツアーのもっともおもしろい時間帯はこの後に訪れた。ドラマーのスティーブ・ピルグリムまでがドラム・セットを離れてギターを抱え、ステージ上はドラムレスのアコースティック編成へと移行する。“オール・オン・ア・ミスティ・モーニング”(クラドックのホイッスルを合図にザ・フー“マジック・バス”へと傾れ込む!)やジャムの“ザ・バタフライ・コレクター”を、まるで楽しげなトラディショナル・フォークのように、豊かなハーモニー・ワークと折り重なる美しいギター・サウンドで料理してしまう。フォーキーなのにやたらロック。まさにウェラー・モダン・クラシックス最新型という印象だ。彼のロックがこの09年に、またもや自由に咲き乱れているといった感がある。楽しそうにワイン・グラスをかかげて「カンパイ!」と告げてみたり、ボルテージ上げて歌っているのにパンツに落ちた埃が気になったりするウェラーもイカス。巡り巡って再びロック・バンド・セットに戻ったメンバーは、沸き上がる歓声の中でダビーかつグルーヴィーな“ワイルド・ウッド”をプレイする。うわあ、メモとるのやめて踊りたい。続けざまに放たれるのは爆発的なR&B、ノエル・ギャラガーとの共作曲“エコーズ・ラウンド・ザ・サン”だ(もはやすでにメモとかとってない)。この高揚感に抗えるロック・ファンが果たしているのだろうか。そしてラストはストレートなロックンロール“カモン/レッツ・ゴー”が有終の美を飾る。一本のライブがまるでひとつの旅の行程であるような、そういう物語性を感じさせてやまない感動的なステージであった。
ロックンロールは発明であり、大いなる法則であり、公式である。だが、ポール・ウェラーはロックを愛しながらも、ロックに甘えたことは一度も無い。今回のステージは物語的ではあったが、別にシアトリカルな演出がなされていたわけではなかった。一曲一曲、ウェラーが模索し、生み出したバラエティ豊かな作品を、バンドがウェラーのロック観に沿って演奏しただけである。だがそれは、ウェラーの人生に染み付いたものを描き出す作業であって、シリアスで、でも楽しくて、濃密であった。ウケ狙いで流行のポップ・ソングをカラオケで必死に歌う浅はかなおっさんの、その対極にある「歌」を、ウェラーは歌っていた。2度目のアンコールで、オーディエンスの大歓声と共に“悪意という名の街”のモータウンなベース・ラインが響いたとき、まるで映画のエンド・ロールを観ているようだと感じた。もちろん、ウェラー自身の旅は終わらない。あなたにはまだまだ、教わらなければならないことが山ほどあるのだから。(小池宏和)