今年のサマーソニックでもっとも大量の涙を観客にだだ漏れさせたと言われているヨンシーの、初の単独ツアーである。大阪、名古屋と北上してきて、土曜日に行われる新木場スタジオ・コーストでの東京公演は早々にソールド・アウト。恵比寿ガーデンホールでの金曜日今夜の公演は、追加で行われるもの。もちろん、この日も完売。
シガー・ロスの公演もそうだけど、この日の観客の空気というものは独特だ。会場外で待ち合わせているとおぼしき人が、待っていた友人を見つける。普通だったら、イエーイのひとつでも若干大きめの声で発するのが常なのだが、そういうことはしない。なんか、ひそひそというか、しめやかというか、「お待たせしました」「いや、そんなに待ってませんよ」みたいな会話が聞こえてくる。待ち受けるものへの敬虔な思いがそうさせるのか、あるいは、ここで大声を出すと楽屋のヨンシーが怖がって帰ってしまうのではないかという危惧(?)からか、こわれものでも取り扱うかのような、あるいは聖なるものへのしかるべき態度を示そうということなのか、とにかく、ロック・コンサートでありながら、ロック・コンサートから遠いもの、それが「ヨンシー」である。
というような具合だから、開演前の会場は興奮のざわつきよりも張り詰めた緊張のほうこそが支配する空気。開演から遅れることほんの5分。客電もバッと消えるんじゃなく、そおっと落ちて、公演がスタート。暗闇からゆっくりと強まる薄明かりにギターと持ったヨンシーと、その後方に木琴(?)担当のふたりが立ち現れてきても、固まった観客たちは拍手のタイミングがとれない・・・と、そのまま1曲目、『Go Live』収録の「Stars In Still Water」が演奏される。切り詰められた音数と、したがって思う様堪能できるヨンシーの「声」。会場がその瞬間、「待ち望まれた世界」へと誘われたのが手に取るように実感できる。この一瞬の掌握力は、やはり普通のミュージシャンのそれをはるか凌駕する次元のものだ。
ヨンシーの独特なファルセット(というか、それはそういう控えめな表現では言い表せない、それこそが「裏」ではない、彼の「表」の声だ)が場内を満たし終わったのにようやく我に帰ったか、ここで初めて、きちんとした(?)拍手が起こる。こういうなにかぎこちなさというか、お互いに気を遣いあったがゆえにぎくしゃくしてしまうのも、シガー・ロス、ヨンシーのライブならではか。ステージは、他のバンド・メンバーも加わって、2曲目「Hengilas」へ。
ヨンシーの出で立ちは、手足から千切れた布が何本もぶら下がった、まるで包帯でも着ているようなあの衣装だ。周りのミュージシャンたちも、ロック・ミュージシャンとしての記号性はゼロで、「衣装」、つまりコスプレである。ステージのバックには全面にスクリーンが設置されていて、そこには、ライブを通じて、まさに「童話」と呼んでいい物語が映し出されていく。そこは「森」であり、「世界」である。そういう劇場なのである。
「Iccicle Sleeves」から「Kolnidur」、そして「Tornado」へ。さまざまな動物たちが生息していた「森」に災いが起こる。逃げ惑うもの、追うもの、それを救おうとするもの。そうした物語をスクリーンに描きながら、バンドはそうした光景がどのような「現実」へと向かっているのかを示していく。獣たちは粉々に砕け、世界は竜巻の中に崩壊していく。
ここまであくまで静かに、重く沈みこむような曲が続いていた。ここまでがまず、ヨンシーがわれわれに共有してほしい、前提なのである。世界は壊れた。誰も生きていけない。
たとえばこれがシガー・ロスだったらどうだろう。この前提から、シガー・ロスはどこに向かうかといえば、内なる世界へと向かうだろう(『残響』は別として)。個々の胸のうちにある声をさらに聴こうと旅立つだろう。しかし、ヨンシーは違う。
「Sinking Friendship」で、ヨンシーはハンドマイクのスタイルを選ぶ。そして、こう歌いだす。「今、ぼくはかなしい歌を歌っている。きみにむけて」。
よく言われるように、ヨンシーのソロ・アルバムは「明るい」ものとして提示され、受け入れられた。それは、希望を扱うものであり、強い意志を掲げるものであるといわれてきた。確かにそうだと思う。シガー・ロス『残響』の変化を踏まえれば、それを必然と呼ぶことに何の不自然さもないだろう。
しかし、それはなぜ起こったのだろうか。ヨンシーが明るくなったから? そんなことはないと思う。というか、そのような気まぐれな「気分」が「希望」を連れてくることはないのだ。では、なぜ「明るく」なったのか。それは、彼ら(そして彼)が鳴らす音が、ポップ・ミュージックとして優れたものに深められたからだ。もっと言えば、あの暗く、沈みこんだ、どこまでもストイックな、だから、普通の定義で言えばもっともポップ・ミュージックから遠いとされてもおかしくないあの音が、だからこそ、その真摯さにおいて、優れたポップ・ミュージック足りえたということなのだ。平たく言ってしまえば、正しく「暗い曲」を作りえたヨンシーは、正しいポップ・ミュージックへと至った。結果、その必然的帰結として、それは「明るく」なったのだ。なぜなら、正しく優れたポップ・ミュージックとは、それだけで「希望」だからである。
ヨンシーの弾くピアノの音が光を帯びてきている(「Saint Naive」)。弾き終えたヨンシーは、ここでこの夜初めてMCを行った。「Go Doを演るよ」。そう言って始まった「Go Do」が解き放ったものがどれだけ大きなものだったか、会場にいたすべての人はうなづいてくれるはずだ。ウクレレを爪弾くヨンシーが「さあ、やれ」と言う。続く「Boy Lilikoi」では「自由へ」と、そして「Animal Arithmetic」では「命を謳歌せよ」と呼びかける。紙飛行機が場内を飛び交っている(ヨンシーも「Go Do」の後、飛ばし返していた)。スクリーンには獣たちが戻り、花々が咲き始め、鳥たちがその蜜を吸う映像が映し出されていく。最後には何千という蟻たちが現れ、枝や花びら、そして新聞の切れ端やら、お金のきれっぱしやら、もうなにやらなんでもかんでも運び出している。「世界」が再び創造されていく。
そんな光に包まれたクライマックスを終え、ヨンシーは「New Piano Song」では、やはり、鍵盤に倒れ込むようにしなだれかかったまま、身動きひとつせずじっとしてしまう。バンドは去り、冒頭と同じように2人だけで、この「世界」がそれでも壁に囲まれていることを歌う(「Around Us」)。最後は握り締めたマイクがガコギコガリガリガガガガガとノイズを発して、本編が終わっていくのである。
なんと正しい終わり方だろうか。だって、そういうことなのだから。「世界」はそういうことなのだから。「世界」は童話のように、諳んじれるほど読んできた予定調和を今日もまた、こんなふうに繰り返すのである。
だから、ポップ・ミュージックは今日も創られなければならないのだ。そんな夜にこそ、繰り返し歌われなければならないのだ。なぜなら、ポップ・ミュージックだけが、そんなクリシェに向かって、いつだって闘えと突きつける音楽だからである。ポップ・ミュージックだけが、したがっていつか、そのクリシェを打ち破ることを夢見させる音楽だからである。
アルバムのジャケットにその姿を雄雄しく晒し、この「世界」の中で独り、転げながら歌うことを選び取ったヨンシーが獲得したものとは、そういうことだった。そう思った。(宮嵜広司)
セットリストは以下の通り。
1. Stars In Still Water
2. Hengilas
3. Iccicle Sleeves
4. Kolnidur
5. Tornado
6. Sinking Friendship
7. Saint Naïve
8. Go Do
9. Boy Lilikoi
10. Animal Arithmetic
11. New Piano Song
12. Around Us
encore
13. Stick And Stones
14. Grow Till Tall