ちなみに昨夜の東京公演は彼らの『HELPLESSNESS BLUES』ツアー、その世界中を巡った長きに亙る旅の最終地点となる記念すべき公演だった。加えて脱退を表明したドラマー、ジョシュ・ティルマンがフリート・フォクシーズと共にプレイする最後の夜でもあった。昨夜の東京は雪もちらついた極寒の一夜だったが、潮風が吹きつける新木場スタジオコーストの周辺は空気が痛いほどの冷たさで、そんなまさに絶対零度的な、凍えて静まりかえり、雑踏のノイズや汚れが掃われた状態の場所でフリート・フォクシーズの初上陸を見守ることは、文字通り一期一会の体験だったと言っていい。
アルバムの音源の段階ではフォーキー・ストイック・端正という第一印象が最後まで残るのがフリート・フォクシーズの音楽である。彼らのアルバム音源にもうねりや胎動、そして爆発のようなものは予感として存在はするけれど、それはあくまでも美しい調和の箱庭から見上げる予感に留まるものだ。対して彼らのライヴとはまさに、その予感を現実へと昇華する場に他ならなかった。そんなライヴの心臓部を担っているのがジョシュのドラムだっただけに、彼の脱退が今後バンドに与えるだろう影響は小さくないと思う。
「サンキュー・フォー・カミング、えーと、アリガトウ」とロビン。曲間に何度もサンキューを繰り返していた彼だけど、そんな彼の言葉とチューニング音以外はしーんと水を打ったように静まり返った会場に、日本のファンのフリート・フォクシーズに対するどこか不可侵な畏敬の念みたいなものが感じられた前半戦だった。でも、「ウェルカム・トゥー・ジャパン!」と叫んだ外国の方に対して「サンキュー、アメリカン・ガイ!」とロビンが返して笑いをとったあたりから、徐々に場内の空気も変わっていった。以降、曲の最中にどよめきや歓声や手拍子が巻き起こり、曲間にも笑いや掛け声が飛ぶという、オーディエンスの息遣いがステージ上の彼らにもダイレクトに伝わる温かい空気に会場は包まれていった。
チューニングと言えば興味深かったのが、元来アコースティックを主体としたフリート・フォクシーズの音楽において、素朴で飾り気のないアコースティック元来の「音質」を感じたのはこのチューニング音だけだった、ということだ。演奏本編における彼らのアコースティック・サウンドは異様にハイファイ、つるつると艶やかな質感を持つもので、「フォーク」と形容された際に誰もが頭に浮かべる木綿のような質感とは全く異なっている。彼らの音楽が宇宙的な、スペース・サイケ的な壮観足り得ているのはこの音質のせいだと思った。
そして後半戦はそこからさらに一転、フリート・フォクシーズの美しき箱庭に醜さが、醜さという名の現実が少しずつ侵入してくるナンバーが続く。ハイファイで艶やかな彼らのハーモニーに陰影が生まれ、裏返り掠れるロビンの歌声は時にニール・ヤングのように生々しく、そしてギターは獣の咆哮のように軋み、歪み、今夜初めて耳に「痛い」と感じる音が放たれていく。正直、私はこれまでフリート・フォクシーズのフォーク・サウンドの汚れなき美しさに箱庭的な現実感の欠如や、どこか「秘境の先の他人事」のような距離を感じていた者だ。しかし、この後半の数曲によって初めて私は彼らの箱庭が決壊し、彼らの歌が自分の内側に染み込んでくるのを体感することができた。“The Shirine/An Argument”はそんな後半を象徴するナンバーだった。