アコギを奏で、凛とした歌声で“希望の環(WA)”を歌うmiwaには、miwaバンドのバンマスとしてもお馴染みのejiによるピアノ、そしてOECD東北スクールに参加した男女5名の若者(「環」Tシャツを着用)によるコーラスが寄り添っていた。一見、素朴なライヴパフォーマンスではあったけれど、そこには“希望の環(WA)”という楽曲の製作過程で込められたいくつもの思いが透かし見え、また若者たちのコーラスは、時間・空間を越えてリンクする思いを象徴するようだった。
放送前のコラムで紹介した(こちら→http://ro69.jp/news/detail/129996)とおり、2015年9月6日、NHK総合『特集 明日へ-支えあおう- 震災から4年半 未来に向けて』にmiwaが生出演した。今年3月に新設されたJR女川駅の新駅舎前、交流施設「女川フューチャーセンターCamass」をキーステーションに放送され、miwaは、俳優・ミュージシャンで女川町出身の中村雅俊と共にゲスト出演。甚大な地震・津波被害を受けながらも復興の活気が立ちこめる女川町にふれて「もっともっと暮らせる町づくりが楽しみだなって」と語ったり、「町も生きてるんだなってことを、すごく感じました」とコメントしていた。
秀逸なデザインとコピーの数々が踊る女川町のポスターが紹介される一幕に、ひょっこりと顔を覗かせた男性のひとりは、どこかで見た顔だと思ったら「蒲鉾本舗 高政」の4代目=高橋正樹さん。以前、ソウル・フラワー・ユニオンのライヴに登場し、大量の蒲鉾をフロアに投げ入れていたことがある。僕の中で蒲鉾の価値観が激変するぐらい美味しかったが、生放送内でのmiwaは、女川のホタテを頬張り「おいしー!」と目を丸くしていた。
震災から4年半、人々の生活を追う番組の構成は、極めて多面的かつ重厚であり、決して一口には語り得ないものだった。宮城県石巻市で小学生の兄妹を失い、震災後に新しい命を授かった夫婦。岩手県陸前高田市で母を失った現在20代の姉妹は、妹が当時高校生で向き合えなかった母の最後の姿を写した写真に向き合う。宮城県岩沼市では住民が積極的に話し合い町づくりを進める一方、原発事故の避難指示が解除された福島県楢葉町では、生活基盤の整備と放射線の不安についても語られていた。岩手県大槌町の中学校を卒業し、各地で生活するうちに津波で故郷の風景を失った人々は、元校長が企画した卒業ビデオの上映会に足を運ぶ。時間は確かに流れているけれど、傷に向き合う心情や、復興のスピードと条件は、人の数と同じだけ多様であることが分かる。
場所も世代も生活もさまざまな人々のドキュメンタリーを経て、miwaと“希望の環(WA)”にスポットライトが当てられたのは、生放送枠の終盤であった。「KESEN ROCK FESTIVAL 2015」のステージで若者たちと歌った“希望の環(WA)”の模様から時間を遡り、製作過程を振り返る。当時のOECD東北スクールの学生たちから、「可哀想っていう言葉をかけてほしくない」「絆っていう言葉は、あんまり、そんなに使ってほしくない」という率直で真剣な要求がmiwaに伝えられる様子も、カメラはとらえていた。「もし、うちらが震災を経験しなかったら、気付けなかったこと」。そんな学生たちの思いを踏まえ、miwaの創作ノートには無数のフレーズが書き込まれる。そして完成した“希望の環(WA)”にふれ、ある学生は涙を流し、「東北復幸祭〈環 WA〉in Paris」でエッフェル塔を背に合唱するシーンが、VTRを締めくくる。
「この曲は、私の曲というよりも、みんなの曲。みんなにとっての自分たちの曲なんだっていう、そういう曲になったので、とても特別です」と語り、《誰かを思うやさしさで この町は生きてる》という歌詞フレーズを紹介すると、miwaは番組内での生演奏に向かった。大学に入って地元を離れたある学生は、「寂しいときに、この曲を聴いて、泣いて、また頑張ろうって、背中を押してもらえる」と語っていた。「東北復幸祭〈環 WA〉in Paris」テーマ曲であったはずの“希望の環(WA)”は、今や新しい意味を育んでいる。
優れたポップミュージックは、作り手の思惑を越え、広がり、分かち合われ、成長してゆくものだ。それぞれの思いが汲み上げられ、重なり合って生まれた“希望の環(WA)”という1曲は、ときにさまざまな思いがぶつかり合い、刻々と成長してゆく「町」の姿に、とても良く似ている気がする。そんな、個人の思惑を越え、人々の中で果たされる成長と変化を、我々は「希望」と呼んでいるのではないか。意味のない思いなど、どこにもありはしないのだ。“希望の環(WA)”の物語は、まだ始まったばかりである。(小池宏和)