ザ・ストーン・ローゼズの22年ぶりの単独来日公演。あの素晴らしかった武道館から1週間以上が経ってもなお、余韻でうっとりしている今日この頃。そしてその余韻の中で、彼らのライブを観て「格好いい!」「最高!」とここまでストレートな感想を得られたのって、もしかして初めてなのではないか?とふと思い至った。
ではなぜ、今回はストレートに彼らのライブを祝福できたのか。それはデビュー・アルバム『ザ・ストーン・ローゼズ』の時代のミラクルを取り戻したローゼズと、『ザ・ストーン・ローゼズ』の画期性を既に前提としている私たちオーディエンスが、初めて共通認識を持った上で「答え合わせ」をしたようなライブだったからじゃないだろうか。逆に考えれば、彼らの1989年の初来日は私たちが『ザ・ストーン・ローゼズ』の画期性を充分に理解する前の出来事だったし、1995年の二度目の来日は、彼らが『ザ・ストーン・ローゼズ』のミラクルを手放した時期だった、とも言える。そう、過去にはそういうすれ違いがあったんじゃないか?改めて振り返ってみることにしよう。
ザ・ストーン・ローゼズの初来日は1989年の10月。陳腐な言い方になってしまうが、あれは衝撃の体験だった。当時14歳だった筆者の貧弱な音楽知識と経験をもってしても、そこで画期的な何かが行われているということは分かった。聴いたことのないアンサンブル、観たことのない光景、感じたことのない感覚。ドキドキするのだけれど、なぜドキドキするのか分からない。ぎくしゃくと身体を動かしてみるものの、それが正解なのか、そもそも正解ってなんなのか、クエスチョン・マーク付きの興奮が次々押し寄せてきて戸惑う、そんな1時間強だった。この未知との遭遇じみた経験は、今みたいにデビューそこそこのUKインディ・バンドがカジュアルに来日する時代ではなかった、という環境面も原因のひとつだろう。当時のだいたいのバンドは、音楽性も状況も評価も固まってから来日していたからだ。
ちなみに一緒に観に行った父親は終演後、「メロディはビートルズなのに音痴のボーカルとギターエフェクトのせいで台無し。あとなんだあの格好は」と文句を言っていたが、回りの観客も戸惑った反応が多かったように思う。日本青年館という環境のせいもあってか、間違っても「これぞマッドチェスターの震源地!」みたいなノリでフロアが揺れるなんてカッコいいことにはならなかったし、ほとんどの人が棒立ちで見ていた。あのグルーヴにどう乗ったらいいのか、あの桁外れの音痴をどう評価すればいいのか――音楽業界のプロでもないかぎり、少なくともそれまでのUKロック、UKインディ・ギターの文脈で彼らを知り、ファンになったリスナーにとっては初めての「問題」だったと思う。
あと、ローゼズの初来日公演で忘れられないのがステージの暗さ、スモークで遮られた視界の悪さだ。ステージ照明は恐らくほぼバックサスだったのだろう、薄霧の向こう、逆光でぼんやり浮かび上がる彼らのシルエットは、これまでのロック・コンサートの演出とはかけ離れたものだった。今思えば、あれはステージとフロアの垣根を無くすレイヴ的演出であり、新たな価値観だったということはわかる。でも、当時はそんな理屈は頭に浮かばなかった。なにしろ、あのあまりに有名なジョン・スクワイアの発言「90年代はオーディエンスの時代だ」は、この初来日時点では発せられていなかったのだから。
この初来日の直後にシングル“Fools Gold”がリリースされ、彼らは初めてUKのメジャー・チャートで大きな成功を記録した。ここから翌90年のスパイク・アイランドにかけてのローゼズの黄金期に狂ったようにローゼズを聴き続け、雨後の筍状態でデビューし続けるマッドチェスター・バンドをフォローしながら、同時に808ステイトやオービタルやスクリッティ・ポリッティも聴き始め、そういった後付けのリファレンスによって、ようやく1989年10月の「あれ」が何だったのか、理解出来た感覚だったのだ。
マッドチェスターからシューゲイザー、そしてシューゲイザーからブリットポップへと、80年代末から90年代前半にかけてUKシーンのトレンドが入れ替わっていく中で、ストーン・ローゼズは常に特別なバンドであり続けていた。しかし、当時の彼らは長引く裁判や、なかなか完成しないセカンド・アルバムによって一種の沈黙状態を強いられてもいた。そんなローゼズが『セカンド・カミング』をついにリリースしたのは1994年の冬のことだ。同年4月にはブラーの『パークライフ』が、8月にはオアシスの『ディフィニトリー・メイビー』がリリースされており、ブリットポップが爆発していた最中でのリリースだった。
そして、『セカンド・カミング』に対する賛否両論の議論が続く中、翌1995年にレニが突如脱退。6年前の初来日ステージが未だかつてない体験になった根拠の多くの部分をレニのドラムスが担っていたことを、その後数年間をかけて理解した後だっただけに彼の脱退は衝撃だったし、6月に予定されていた来日公演に対する不安も募っていった。しかもジョンの骨折で来日は延期され、ますます不安な中での再来日となったのが、同年12月の初の武道館公演を含む2度目の日本ツアーだ。
22年前の武道館も即完だったと記憶している。そしてあの日、武道館で観たローゼズのライブは6年前とは別の意味での、そして悪い意味での驚きに満ちていた。6年前、私たちは「未知のもの」を観たと思っていたのに、武道館の彼らははっきりと「過去のもの」をやっていた。もともとクラシックなロックンロール・バンドであれば、あそこまで否定的には感じなかったはずだし、普通に楽しんでいたと思う。けれど、かつてロックの文脈を変えたはずだった彼らが、ロックの古典的文脈そのままの大仰なギター・ソロや、男臭くブルージーなグルーヴ、冗長な展開とカタルシスの演出をまんま繰り広げていたのだから、「それをローゼズがやるの?? 今??」という失望が広がったのも仕方ないだろう。
そんな『セカンド・カミング』と当時のライブ・パフォーマンスの方向性を仕切っていたのがジョン・スクワイアであったということは様々なインタビューやレポからも明らかだったし、あの日の武道館でジョンがいっそ孤独に見えたのも、つまりそういうことだったのだと思う。だから翌1996年にジョンの脱退が報じられた時はレニの脱退ほどの驚きは感じなかったのだ。
ちなみに筆者は同年8月、ジョンとレニのいないローゼズのラスト・ライブとなったレディング・フェスティバルを観に行ったのだが、これがダメ押しの決定打だった。くねくね踊る女性コーラスを引き連れてのそのステージは、『ギヴ・アウト・バット・ドント・ギヴ・アップ』時代のプライマル・スクリームを思いっきりダメにした感じのズタボロの内容で、目が泳ぎまくり音を外しまくるイアン、ファンのヤジにキレる助っ人のアジズ、マニですら硬い表情、棒立ちの観客、次々に帰っていく観客、その一方でひっきりなしにヤジと怒声と紙コップ(水やビールで満タン。それをステージに手榴弾のようにバンバン投げ込むのだ)が飛び交っていたあの場の空気は、今思い出してもいたたまれない気分になる。ストーン・ローゼズの解散は、そのわずか2カ月後のことだった。
このような解散までのいきさつを踏まえて考えれば、2011年のストーン・ローゼズの再結成は、ゼロからのスタートに近いものがあったことが分かるだろう。イアン、ジョン、マニ、レニの4人が揃えばオール・オッケーということじゃない。そこには和解し、修復し、取り戻さなければならないものが沢山あったということだ。
そういう意味でも、2012年のフジ・ロック、2013年のSONICMANIAでの来日で真っ先に強く感じたのがジョン・スクワイアとイアン・ブラウンの和解であり、再びローゼズのグルーヴに馴染んでいくジョンと、彼を迎える3人の姿であり、やっぱりレニがいてこそのローゼズ(感涙)!!という記憶の復元だった。あと印象的だったのが、ジョンとイアンたちの溝を埋める上で、ファースト『ストーン・ローゼズ』のケミストリーの再解釈よりも先に、『セカンド・カミング』のナンバーの名誉回復が行われていると感じたことだった。そして90年代、00年代にローゼズ・フォロワーと呼ばれたバンドたちの多くがトレースしていたのは、むしろ『セカンド・カミング』の頃のローゼズだったことに気づいたのも、この2度の来日だった。
ファンがアップしているフジロックの映像はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=njh5xm2X0xM
そして今回の武道館公演。その感動的だった内容の詳細については、先日のライブ・レポート(http://ro69.jp/live/detail/159445)をお読みいただければと思う。ちなみにライブの中ではまったく目立たずさらっとプレイされた新曲“All For One”だったが、2012年、2013年の来日と今回の単独来日を分けたのは、今回は“All For One”、“Beautiful Thing”と2曲の新曲を作ったローゼズ、4人で新曲のためにスタジオに入り、自分たちのアンサンブルの強みとウィークポイントにガチンコで向き合った後の彼らだったという点だろう。そういう意味でも、次こそは新作を引っさげてのストーン・ローゼズ、1989年の初来日で示されたあの未来を、いよいよ先に進めるライブが観たいと思うのだ。(粉川しの)