10月16日深夜1時よりオンエアされた『菅田将暉のオールナイトニッポン』には、『オールナイトニッポン』のスペシャルウィークの一環として、ゲストに米津玄師が登場した。
菅田将暉と米津玄師といえば、先日発表された“灰色と青(+菅田将暉)”が話題を集めており、同曲のMVも24時間以内に100万再生を突破、現在も再生数を伸ばし、400万再生を超えている。
そんな中オンエアされた同番組。このふたりが何を話すのか、注目度の高い放送になったことは間違いない。
冒頭、まだ米津が登場していない段階で、「せっかくかっこいい米津さんが来てくださるので、かっこいい放送にしていきましょ」と関西弁混じりのいつもの感じで始める菅田。
米津を呼び込み、「どうですか」と訊くと、米津は「緊張がひどい」と、菅田に、気心の知れた友達に話すような感じで訴える。この時点で、このふたりの空気感が伝わってくる。
しかし、ふたりが実際に会ったのは今回で3回目だという。1回目は打ち合わせがてらの食事会、2回目はレコーディングで、MVも撮ったとのこと。「3回目がラジオっていう。このスピード感がね……!」と言う菅田に、「でもほんとに、一緒にやれてよかったなって」と米津。
そして、ふたりの第一印象の話に。「僕は、温度感みたいなもので、割と低温なイメージがあったんですよ。でも会ってみると、さっき『やれてよかった』って言ってくれたみたいに、すごい熱くて。『ものすごい熱い人なんや』っていう印象」と菅田。そこから、初めて会った時に、米津がべろべろに酔っ払っていたという話に。「終始、『俺、天才や!』って言ってたもんね(笑)」、「それで俺は『こいつすっきやわ~』って思ったもん、勝手に」とのこと。対して米津は、「2014年の時に“アイネクライネ”っていう曲があって、それが東京メトロのCMソングで、その映像を撮ってくれた監督の映画作品の『そこのみにて光輝く』を観させてもらった時に(菅田が)出てて、すげー人いるなって。ビビッドな、ある種、暴力的なニュアンスがある、この人は一体なんなんだろうっていう興味から始まって」と初めて映画で菅田を観た印象を語り始める。「自分の人生のタイムラインにおいて、度々顔を覗かせる人だったの、菅田将暉っていう人が。その後も、『ディストラクション・ベイビーズ』とかも監督が知り合いで、試写で観に行かせてもらって。『溺れるナイフ』とか、『何者』、『打ち上げ花火』もそうだったし、度々顔を表すこの人はなんだろう、みたいな感じがあって、それがきっかけで曲を、って感じですね」という、“灰色と青”までの経緯が語られた。
しかし菅田は、「今回米津さんからオファーしてくれたじゃないですか。それは、なんで俺やったの? 俺でよかったの?っていう」と不安があったと話す。そこへ米津は「菅田くんじゃないと絶対だめだなって思った」と即答する。
そして、ふたりがお世話になっているというカメラマンの中野敬久がセッティングしてくれて、初めて会うに至ったという。米津はそこで「『絶対に一緒にやりたい』っていう気持ちがものすごく強くて。『これは口説けなかったら終わり』ってくらいに言ってたから、俺、ウィスキーとかガンガンに飲んで行って」と初めて会った時にべろべろだった理由が明かされる。さらに、その時にはすでに曲の1番はできていて、それをギターで弾き語りし、「この後歌ってほしい」と、曲に込めた思いなどを菅田に話して、そこから1週間後には曲が完成したという。米津は「ほんとにもうパツパツのスケジュールのところ、ほんとに申し訳ないなと思ってさ」と、多忙な菅田に気を遣ってのことらしいが、「俺はもう全然、時間ていくらでもあるんで」とケロッと返す菅田に、そんな訳ないのにと思いつつも、謙遜し合うふたりの会話に和む瞬間だった。
そこへ米津は「この瞬間撮らなければ、もう多分ないなと思って。レコーディングが9月で、夏から秋に移り変わるその微妙な、曖昧な季節の空気感とか、それは2017年じゃなきゃ絶対だめだったし。だから、ここだっていうのが自分の中で感覚としてあって、すごい無理言って……」と、どうしても自分の中で、その時でなければならなかったことを明かし、菅田も「でも、あの時にしかできないものってあるもんね」と納得するように答え、「この曲はほんとにもう、奇跡的なタイミングの、奇跡的な、いろんなものが合致した結晶になったと、自分ではめちゃくちゃ思ってる」と、米津がさらに、この曲がMVを含めて完成した感慨を語った。
その後に“灰色と青(+菅田将暉)”がかけられたが、そのエピソードを聞いてから改めて聴くと、さらに濃密な楽曲であることがしみじみと伝わってきたのは、私だけではないだろう。
次に菅田は、楽曲をどうつくるかと質問。“灰色と青”について訊くと、「それはもう本当に、菅田将暉っていう人間がいて初めてかたちになった曲」と、ここでもこの曲への菅田将暉の存在がいかに大事だったかを熱弁。菅田は、「嬉しかったのが、酔っぱらいながらも本音だと思ったのが、ビートたけしさんの映画が好きとか、ちっちゃい頃とかにあった熱量とか、今は変わってしまったのかもしれないっていうものを表現したい、って言ってくれたときに、僕も16歳で上京してるから、部活とかを途中で辞めた人間としては、あの頃の続きがやっとできるのかなっていうことは感じた」と語る。「あの曲は、そもそも『キッズ・リターン』ていう北野武さんの映画があって、高校生ふたり組が、お互いがお互いの道を選びながら進んで行って、最終的にふたりともダメになっちゃって、冒頭の校庭に戻るっていう映画なんだけれども、そういう音楽をどっかで作りたいなってずっと思ってて。それは、どこなんだろう、いつなんだろう、どういうかたちなんだろうっていうのをずっと思っていて。それが2017年になって、菅田将暉っていう人間が、なんか気がついたら脳裏にちらつく、度々出会う、この人は一体なんなんだっていう。自分は音楽家であって、菅田くんは俳優であって、全然表現方法は違うけれども、俺が勝手に思い込んでるだけなんだけど、なんかどっかで共通してる部分があるんじゃないかなっていう思いが、どうも頭の中から離れないな……気づいたら、『あ、これは曲になる! 今だ!』って思って、バッてつくって、バッてかたちになったら、ああいう曲になったっていう」と、米津は熱く語った。
さらに、レコーディング時、本レコーディングが終わってからふたりで歌ったという話も。米津は「あれ良かったね。すげー楽しかった」と話し、菅田は「あれ表に出さないでいいから俺ほしいもん」と、レコーディング時の熱量を思い出しているようだった。