ゲームクリエイターの小島秀夫が「Rolling Stone」のゲーム専門サイト「glixel」にギレルモ・デル・トロ監督の新作映画『シェイプ・オブ・ウォーター』についてのエッセイを寄稿し、映画の見どころやデル・トロ監督の作家性について綴っている。
『パンズ・ラビリンス』や『パシフィック・リム』など、ファンタジーの名手として知られるデル・トロ監督のこの新作は、12月1日に全米公開、3月1日に日本公開を控えている。
アマゾンで捕獲された不思議な生物と、この生物を保護している研究所の声の出せない女子清掃員との心の交流とロマンスを描いた本作は東京国際映画祭にも出品され、ヴェネチア国際映画祭ではすでに金獅子賞にも輝いている。
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— The Shape of Water (@shapeofwater) 2017年11月28日
小島はエッセイの中でこの作品は映画を深く愛し、愛そのものをも愛しているデル・トロ監督の映画人としての魂が作品から立ち上がってくるような内容になっていて、映画の見どころについても「サスペンス、バイオレンス、エロティシズム、ユーモア、喜び、そして悲しみまですべてが詰まっている」と紹介している。
同作の舞台は米ソ冷戦が影を落とす60年代初期だが、研究所で清掃員として働く主人公のエライザは、日常とは違うなにかへの期待を胸に秘めたまま単調な繰り返しの生活を送っている。
職場の同僚で友人のゼルダが黒人女性であること、そして心を許している隣人が仕事にあぶれたイラストレーターであることなどの描写が60年代のアメリカ社会とその中での「負け組」とマイノリティの存在を浮き上がらせ、これが研究所の研究員らの「勝ち組」との対比によって見事に描かれていることも指摘。
その中でエライザと「アセット(研究資材)」と呼ばれる生物との出会いと恋が描かれていくわけだが、その世界観について小島は次のように説明している。
これはファンタジー物語でありながら、それと同時にエロティックでもあり、それはまたグロテスクなアダルト・ファンタジーということもなるし、その上にさらに冷戦時代の政治状況とサスペンスに満ちたアクションが盛られた作品なのだ。
自身の作家性とポピュラー・カルチャーの諸要素を巧みに織り交ぜながら、それと同時に過去のさまざまな怪物映画へのラブレターにもなっているという、そんなエンターテイメントを形にして世に送り出せる作り手などデル・トロしかいないのだ。
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— The Shape of Water (@shapeofwater) 2017年11月24日
これはひとえに製作、監督、原案、脚本などすべての要素においてデル・トロ監督が指揮を取っているからこそ可能なことなのだが、小島は、これが実は今のハリウッドではとても困難なことになっているのだと述べる。
むしろ、作家性を追求しない分業的な実務主義がメジャーとなっているハリウッドでは、「たとえば、過去においてはH・R・ギーガーが第1作目の『エイリアン』において例の怪物を生み出していくプロセスをすべて個人でやり遂げて、その結果、時代に褪せないものを作り出すことになった。しかし、そんな時代はもうとうに過ぎてしまっているのだ」と指摘。
そして「現代の映画製作で重要視されているのはどれだけ自分の役割を“こなすか”ということであり、全体をまとめあげていくことではないのだ」とも述べている。
ベルトコンベア式の商品生産のような発想に変化しつつある映画業界だが、これはゲーム業界でも特徴的な傾向なのだという。小島によると、ゲーム業界ではもはや作家主義に基づいた監督的な存在さえなくなってきていると言う。
この変化はゲーム業界にと映画業界における、ひとりの監督が原案、製作、脚本、音楽、あるいは宣伝にまで携わることが資金と資源の無駄遣いになるだけで非効率的だとする考え方によるものだが、小島はこの考え方に対し、以下のように意義を唱える。
ゲームや映画というのは、ユーザーに対し、彼らの時間をそれ相当に注ぎ込ませるエンターテイメントだ。であるからには、そこには作り手の愛がなければならない。途方もなく巨大で姿の見えないオーディエンスを相手にするには、魂を持ったひとりの人間がその創造物を通して愛を届けなければならない。
作品を成功させるためには、その作品の小さな細部までもがその作者の愛によって満たされていなければならない。「映画と愛そのものへの深い愛を持つ人たちのために(東京国際映画祭で作品の上映前に紹介されたデル・トロ監督からのメッセージ)」作られたというこの映画の冒頭には、「ギレルモ・デル・トロ作品」と映し出される。
こうやって作者の名前が始めに映し出されるのは虚栄心からではなくて、作品に対して誰の愛と魂が込められているのかを明らかにするための声明であり、署名なのだ。それは作品に対する誇りと責任を表しているのだ。
そして小島は最後に、「この作品のあまりの見事さとデル・トロ監督でしかありえない作家性」がその「作品に対する誇りと責任」をよく示すもので、自分が自身のゲームにも必ず「A HIDEO KOJIMA GAME」と入れているのも同じ動機からだと自身との共通点を述べている。
小島秀夫が同じく「glixel」に寄稿した『LOGAN/ローガン』に関するエッセイについての記事は以下。